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如来堂

新撰組殉難の地です。




「図説 会津の歴史 下:郷土出版社」より抜粋

明治元年8月21日、母成峠で新政府軍と戦った新撰組は敗走。
近藤勇なき後の新撰組を率いていた土方歳三は、会津藩に見切りをつけ、旧幕艦隊の榎本武揚と合流する為に仙台に向かう。

しかし、会津藩と共に戦うことを主張する山口次郎(斎藤一)らは、如来堂に集結していた。

山口次郎は、京都時代には新撰組副長助勤で三番隊組長。撃剣師範を兼ねていた。近藤勇が処刑され、土方歳三が宇都宮戦で負傷して戦線を離れていたため、山口が隊長となって会津入りしていたのである。

9月4日、家老萱野権兵衛が布陣していた高久村で戦闘が始まったという報に、山口次郎はわずかながら援軍を送り出した。ところがその翌日、如来堂が急襲される。

この時、如来堂には20名ほどがいたにすぎず、山口次郎をはじめ13名が戦死したと言われていた。しかし、最近の研究によれば山口次郎をはじめとした6名は生存していたことが分かった。

如来堂を脱出したのち、山口は名を変えて、降伏した会津藩士とともに高田藩(新潟県上越市)で謹慎生活をしている。

放免後は、藤田五郎と改名し、明治7年に旧会津藩士の娘時尾と結婚。
この時の下仲人が山川浩と佐川官兵衛(ともに元家老)で、媒酌人は松平容保であったという。

藤田五郎は、その後、警視庁警部、東京高師職員などをつとめ、大正4年に72歳で波乱の生涯を閉じている。






新しくできたホームセンターに買い物に行ったついでに寄ってみましたが
銀杏が綺麗でラッキーでした。








昭和46年、白虎隊記念館によって建てられた碑。





「戊辰の役会津に来援の新撰組副隊長土方歳三ら数十名は
白河口母成口等で防戦につとめ9月4日には
この如来堂の激戦で隊長山口次郎らが大いに戦い13名は華と散つた。」







散った銀杏の葉が絨毯のようです。
道が出来ているのは、信心深いひとか、はたまたマニアか・・・?






大銀杏が見事です。








屋根はトタン葺きに変わっていますが
昔日は充分偲べると思います。

・・・この地でも沢山の人が死んだのですね。
正直、霊感の強い人は会津に住んだら大変ですよ。
私は何とも無いですが、友人たちがしょっちゅう・・・。








如来堂の裏には神社がありました。






裏の神社からぐるりと一周してきました。




 

如来堂は、会津若松市の市街地からは離れています。
観光マップにも所在地がギリギリ入っているって感じです。

神指城跡の近くです。







如来堂の近くには
地蔵さんがいました。




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