御薬園
おやくえん


薬草園の部分を後にし、庭園の部分を回遊します。




三層塔 伝鎌倉初期







戊辰戦争では、西軍が、城の東にある小田山から天守閣めがけてアームストロング砲を撃ち込み、城内に大きな損害を与えました。

その流れ弾不発弾が、この「心の字池」にも落下したそうです。




庭園を巡ります。





 


鶴ヶ清水と朝日神社のいわれ

今からおよそ600年前の至徳年間、朝日保方という白髪の老人が、病気で苦しむ農民を、鶴の舞い降りた泉の水で救ったとされています。
農民はこれを喜び、祠を建てて朝日神社とし、この霊泉を鶴ヶ清水と名付けたと言われています。

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朝日神社は、小さいお社です。





しゃくなげを見ると「シャクナゲコーナー」を思い出す人は
・・・福島県民ですね。








東屋で休憩できます。


涼風舎

藩政時代会津藩江戸中屋敷に在った建物の名前を継承した。






清冽な清水が心の字池に流れ込んでいます。








心の字池には中島があり、
その上には楽寿亭(らくじゅてい)が建っています。







橋を渡って楽寿亭へ。



楽寿亭(らくじゅてい) 元禄9年(1696)

藩主藩の重役たちが、納涼・茶席・密議などのために用いた。
「楽寿亭」の名は、三代藩主正容によって命名された。
北側の濡れ縁には戊辰戦争の際の刀傷が今も残る。








掛軸の説明

会津藩校日新館において白虎隊士も学んだ童子訓(五代藩主容頌(かたのぶ)公著)の1節。

人の子たるもの父母常に居給ふ畳に仮初にも居べからず。

道の真中は尊者の通り給ふ所ゆえ片寄通るべし。

我家の門とても中央は通るべからず。君門はなほさらのことなり。






楽寿亭より心の字池を望む。









ぐるりと外側を回ってみます。








戊辰戦争の刀傷。
傷をつけたのは会津の人ではないと思います。
藩主ゆかりの大切な建物に傷をつけるような蛮行を、会津の人はしませんから。







心の字池では鯉がバシャバシャしていました。








八重山吹。










御茶屋御殿
元禄9年(1696)

主に藩主の休憩の場として利用された。
質素を旨とする藩主の意図から規模狭小、古材素材を用いている。

戊辰戦争の時には、新政府軍の療養所となり、
後に9代藩主容保もここを住まいとした。









戊辰戦争と御薬園

戊辰戦争では、城下の街はいたるところで火災が起こりました。御薬園の周辺はもちろん、300m程西にある徒之町(足軽などの下級武士が住んでいるところ)も全て焼き払われました。

このような戦火の中にあって、御薬園は長屋門が焼け落ちたほかは、建物・庭園とも西軍の蹂躙も無く、ほとんど昔のままの姿で残りました。

それは、ここ御茶屋御殿がいち早く西軍戦傷者の治療所にあてられていたからです。

負傷者に敵味方はないと言われますが、ここは西軍の将兵のみで、
会津藩の負傷者は誰も収容されていませんでした。


死体の埋葬や、死人に香花を手向けることさえ禁止されたのですから、
負傷者を助けてくれるとは当然思えません。







御茶屋御殿は眺めが良いです。
現在は、有料でお茶とお茶菓子をいただくことができます。








建物の柱には今も大きな刀傷が残っています。
戦場の殺気だった光景が目に浮かびます。

傷を付けるような愚行をしたのは、会津人ではないと思いますよ。









戊辰戦争後の御薬園

明治5年、松平容保は、旧家老山川浩たちの計らいで、
この庭園で小松彼岸獅子舞を鑑賞しています。

戊辰戦争で篭城中、西軍が包囲する鶴ヶ城に、獅子舞隊を率いて無血入城した思い出を藩主の慰めに披露したものでした。

この時、小松彼岸獅子の太夫獅子の頬掛高張提灯会津葵を賜りました。

この時の小松獅子舞隊の平均年齢は14歳
まさに白虎獅子舞隊というべきものでした。

明治16年10月、容保公一家は東京から懐かしい会津に帰り、新居のできた御薬園数年間生活しました。

それから10年後明治26年12月5日、東京で59歳の生涯を閉じました。










何だかんだで3時間居てしまいました。
もう太陽が傾いています。

藤の花を見にきただけなのに、こんなに長いレポを作成する事になるとは・・・。
でも、知らなかったことがイロイロと分かったので良かったです。

特に、御薬園土津神社が、会津人の募金によって西軍から買い戻されて殿に献上されたってのは知りませんでした。

会津は戊辰戦争で敗れて蹂躙されましたが、それでもこれだけ色々と残っているのは、郷土の先人達の想いの結晶なのだと思います。





グワグワ。
草を食べながら二羽の鳥がやってきました。







バシャー。







鳥と池と鯉。
ちょっと良い写真じゃないですか?
日本画風?







御薬園の受付の方に質問したところ、
殿がお住まいだったのは、御茶屋御殿の、この部分だそうです。
この写真だと木で隠れている部分です。
現在は、お茶を振舞うスペースとしても使われていないそうです。







裏側に回ると玄関があります。
殿がお住まいだったときは、この玄関から出入りなさったそうです。

という訳で、御薬園レポはこれで終了です。


今回のレポの参考資料は、御薬園で売っている本です。
ご好意で写させていただいたので、正式な書籍名を忘れてしまいました。
御薬園でしか売っていない本です。500円の。

次回は蓮の花を見に行く予定なので、その時メモってきます。


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