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浄土宗 自然山浄縁院
融通寺


勅願寺としての歴史を持つ名刹です。
町野主水の墓があります。





   

融通寺の入り口です。






本堂です。
戊辰の戦火を逃れた本堂は、当時の面影を留めています。


融通寺の由来

融通寺は、戊辰戦争前までは、興徳寺、実成寺などとともに、城下では有数の規模を誇り、またその開山も古く、慶安元年(北朝1361)と伝えられている。

これは室町幕府三代将軍の足利義満が将軍職に就く7年前であり、その開基となったのは、融通念仏宗の開祖・光乗房良忍の弟子、浄縁であるという。

融通念仏宗を広めるためにこの地にやってきた浄縁は、はじめ河沼郡八葉寺村(現在の広田冬木沢)に一寺を建立して自然山(じねんざん)融通寺と号した。

康暦元年(1379)新領主として会津に入ってきた葦名直盛は、はじめ二井寺村(飯寺)の西北(幕内?)に居り、のちに小館(現在の融通寺村)に移った。

しかし、至徳元年(1384)に現在の鶴ヶ城のあたりに東黒川館ができると、ここに移り住み、もとの小館を浄縁から三世の融海に与えて、その地に寺を移転させたのである。

文禄元年(1592)、第13世の住持文誉(ぶんよ)は、新領主の蒲生氏郷に願い出て寺を現在の大町に移し、旧地の寺は小館(こだて)山城安寺と改め、融通寺の末山として宗門の徒弟をここに住まわせたのである。

この城安寺は、戊辰戦争の後に廃寺となり、いまでは寺も墓地も跡形も無くなっている。この寺もまた、多くの会津藩士たちの菩提寺であったことが、現在、融通寺に保管されている「過去帳」から窺い知ることができる。




屋根には菊の御紋があります。
何故なら、ここ融通時は本山・知恩院直末官寺で、
後陽成天皇の宸筆を得ているからです。

この時代、地方の一寺院時の天皇の宸筆を与えられ、
あまつさえ勅願所とされた例は他に無いそうです。



勅願寺としての歴史を持つ名刹

第14世の持住円芸のとき、蒲生秀行は融通寺を菩提寺と定めたという。そのため、円芸は京都に上り、山・知恩院の直末の官寺となることを請願したのだった。

慶長9年(1604)6月、後陽成天皇から「自然山」と書いた扁額、御宸翰の和歌(二幅)、それに勅願書たる旨を書いた勅制文(一幅)を与えられた。

官寺とは勅願寺・国分寺のことで、中世以降の意味は「幕府の特に保護する寺」を指す。

勅願所とは「天皇の発願によって、鎮護国家、皇室繁栄を祈願する場所」として建てられた寺院のことである。



融通寺・破格の処遇の理由


会津領主である蒲生秀行が、徳川家康の女婿だったからに他ならない。(家康の三女振姫が 秀行の正室)

秀行と振姫との間には三人の子があった。長男が忠郷、二男が忠知、一女は後に肥後熊本城主加藤忠広に嫁す。

秀行が30歳の若さで病死すると、振姫は家康の命により子供達と引き離されて、和歌山城主・浅野長晟と再婚させられるが、翌年38歳で亡くなってしまった。

母の死を悲しんだ忠郷は、元和5年(1619)3月、その位牌融通寺に安置し、寺領として知行200石を寄進している。

忠郷には子が無かったため、弟の忠知蒲生家を相続して四国の松山20万石に転封となり、代わりに松山から加藤嘉明40万石をもって会津に入ってきたのである。







戊辰戦争と西軍墓地

戊辰戦争の時、城下は西軍による「分捕」と称した激しい「掠奪」が盛んに行なわれ、土中に埋めた家財道具までも掘らせ、馬背にして若松町内に持ち込み競売する者、戦火を避け一時避難した町人の空家他国人無断で入り込み商売している事実、さらに町内や城内には、まだ戦死者の遺体野ざらしにされているなど燦燦たる状態であった。

城下のの多くは焼き討ちにあい、宝物や什器類は勝手に持ち去られるという有様であった。

錦旗をなびかせ、「官軍」と称して進入してきた薩、長、土藩を主力とする西軍は、さすがに「菊の御紋」を掲げる勅願所である融通寺だけは焼き討ちする訳にはいかなかった。

しかし、寺の家財道具や多くの書類などを門前で焼却し、その火は三日三晩にわたって燃えつづけたという。

戊辰戦争の時の住職・寂禅という人は、武家の出だったらしく、国難に当たってじっとしておられず、自ら還俗して会津藩に従軍していた。

従軍したまま行方不明になっていた寂禅の身を案じて、その弟子であった蒲生岳順が融通寺を訪ねた。岳順は、融通寺に屯営していた西軍に捕らえられ西軍戦死者のための回向を命じられた。

融通寺には、この頃、西軍各藩の連絡をとるための会議所が置かれていたので、西軍兵士たちの遺体の多くはここに埋葬されたのであった。







戊辰戦役 西軍戦没者墓地

明治戊辰(明治元年・1868)の戦死した西軍の人々を葬った墓地である。明治2年4月現在の墓石が建てられてからは県の招魂社で管理をし祭祀をしてきたが今次大戦後は官修墓地の制もなくなったので西軍墳墓史跡保存会が年々祭祀を行なってきている。ここに葬られている各藩戦没者は次の通りである。

土佐藩 49人
薩摩藩 33人
長州藩 24人
大垣藩 20人
肥州藩 11人
備州藩  6人
岡山藩  3人
館林藩  2人
越前藩  1人
藩籍不明 1人

計150人





入り口。
車が停まっていたので斜め写真ですけど。







入り口から左(南)のほうを撮影。









西軍墓誌
この西軍墓地は戊辰戦役(1868)に従軍し此の会津の地に散華した西軍十余藩 174柱の精霊の眠る霊域である。
回顧すれば星霜ここに90年墓地亦著しく荒廃した勇士の郷里各県は深くこれを憂え、相呼応して志願を結び、昭和32年9月15日茲に墓地改修の工成り永く霊地の尊厳を護持することとなった。同じく9月23日戊辰戦没90年祭施行されるや関係各県代表として山口県知事小澤太郎氏参列し、この墓前に立ち郷土勇士の遺徳を賛仰し篤く敬弔の誠を表した。

昭和33年9月
戊辰戦役西軍墳墓史跡保存会

>勇士の遺徳を賛仰し

ふーん。










大きくて立派です。







あ〜あ、会津に京都守護職押し付けたくせに・・・。









薩摩。
墓石の表に松方正義筆って書いてあります。

台座の部分には一人一人の名前が刻んであるようです。

後にたまたま友人が写っているので、大きさが分かると思います。








長州。
これも一人ずつ名前が書いてあったと思います。









大垣。
台座に名前が刻んであります。









小さい墓石もあります。
これは一人に付き1つっぽいです。








南側から北側を撮影。
奥に融通寺の本堂が見えます。

全ての藩の墓石は網羅できませんでしたがご容赦を。


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ああ、この寺には町野主水の墓があったのですよ。
ここに墓があるとは知らなかったので探さず、お参りできませんでした。

我々は、もともとある程度の基礎知識を有するので史跡めぐりをする訳ですが、
こうやって後日まとめるために色々と本を見ていると、抜けているのがあって
もう一度いく事になってしまうのです(^^;

町野主水については、後日詳しく調べる予定です。
墓参りもしないといけませんし。




町野主水

大正12年6月、若松市で、ある老人が87歳の生涯を閉じた。

遺言により、その遺体ムシロに包まれ荒縄で縛られ、北小路の自宅から墓所である融通寺まで、多くの親類縁者の手で公衆の面前を引きずられていった
その壮絶な光景は、多くの人々を驚かせた。

この異例なる葬儀で葬られたのは町野主水(もんど)である。

町野主水は戊辰戦争で肉親の全てを失った。母、妻、姉、長男は自刃し、16歳の弟・久吉は三国峠の戦いにおいて単身槍をもって敵陣に突入し、壮烈な最期を遂げている。

後年、山形有朋より「久吉の槍を返してやってもよい」という話があったが、主水は「戦場で奪われたものを畳の上で返してもらったとあっては武士の意地が立たぬ」と断わったという。

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戊辰戦争における会津人の遺体は、西軍により埋葬が禁じられ、道々には見るも無残な死体が捨て置かれたままにされた。

この非情な扱いには武士道など皆無であり、多くの会津藩士が怒りに燃えた。町野主水もまた、これに激しく抵抗した一人なのである。

主水は、維新後も若松に留まり、町の取締りをつとめながら旧藩士族たちの面倒をみていた。

主水は、自らの死に臨んで
「我幾多の戦場を経たるも不幸にして君の御馬前に死するを得ざりしは、洵に恥ずる所なり、而して今や旦夕に迫る、願わくは遺骸を菰に包み葬儀を簡にし、槍を棺側に立つべし」と言った。

葬儀の様子は
「簡粗なる葬列の先頭に槍を立て粛々として融通寺に至る、沿道これを見るもの故人の意中を解し嘆称せざる者なかりし」という。



※このページだけは、個人的なコメントを極力控えました。


参考資料
・会津の寺(会津若松市・北会津村の寺々) 歴史春秋社
・幕末会津藩 歴史春秋社


※2004年9月に町野主水の墓参りをしてきました。
「歴史イベント」の「御宸翰公開」レポにてご覧いただけます。

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