涙橋の戦い
もののふの猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも
(中野竹子辞世の歌)
慶応4年(1868)、8月23日、敵侵入の早鐘が鳴ると、自刃の覚悟を決めた家族を除く全城下の人々は、いっせいに屋外へ飛び出した。 篭城していたずらに兵糧を消費しては申し訳ないと、最初から避難した家族もあったが、多くの藩士や女性達は大小を手挟み、薙刀を持って城へ向かった。 春以来、鳥羽伏見や白河口の戦いで肉親を失った者は多く、日頃から薙刀や剣術の稽古に励んできた女性にとって、今こそ父や夫、弟の仇討ちの時である。 一太刀でも恨みを晴らしたい気持ちであった。 中野平内の妻孝子、娘竹子・裕子と依田まき子・菊子姉妹、それに岡村すま子ら薙刀を習う仲間がそれぞれに城へ駆けつけたが、閉門後で入城できなかった。 では、坂下へ立ち退かれた照姫様をお守りしようと坂下まで来たが誤報であった。 そこで、高瀬村に出兵していた家老・萱野権兵衛に参戦させて欲しいと願い出た。 しかし、藩では婦女子まで戦闘員に駆り出そうとは考えておらず、許されなかった。 「参戦のご許可がいただけないのであれば、この場で自刃します」 という彼女達の決死の覚悟を見て、萱野権兵衛は幕兵を中心とする衝鋒隊と行動を共にすることを許した。女性達は黒髪を断って男装し、衝鋒隊に加わった。 8月25日、城下にせまる長州・大垣藩の兵士と柳橋(涙橋)で激突。 激しい戦いが展開され、味方は苦戦、死傷者が相次いだ。 竹子は辞世の歌 「もののふの猛き心にくらぶれば 数には入らぬ我が身ながらも」 と詠んだ短冊を薙刀に結び付け奮戦した。 女性たちの姿を見た西軍は、生け捕ろうと竹子達へ近付いた。 生け捕られてはならじと奮戦中、竹子の額に敵弾が当たり倒れた。母や妹が介錯しようとしたが首が落とせず、農兵が手伝ったと言われる。 竹子を失った一行は戦陣を離れ、その後入城を果たし、多くの女性たちとともに必死で篭城し戦った。 竹子は坂下の法界寺に葬られている。時に22歳であった。 |
新しくできたホームセンターを北上すると、右側に看板が出ていました。 |
あ、古い看板もあったんですね。 ヨレってますが。 |
入り口です。 |
中野竹子奮戦の地・全景です。 |
中野竹子像。 ハリボテっぽいな〜。 もっと立派なものにすべきです。 ↓二本松少年隊の像みたいに立派なのが欲しいです。 ![]() でも、着ている物などはそれっぽい感じがします。 会津秋まつりの「中野竹子」は、お祭り用できらびやか過ぎます。 ![]() 参考:2003年会津秋まつりの中野竹子。 ぜーったい、こんな格好じゃないと思います。 まあ、祭りと割り切って見ればいいんですけど、 これが本当の中野竹子だと思っちゃう人がいたら いけないと思います。 |
中野竹子さんはかなりの美人だったそうです。 母・孝子さんの肖像が美人なので、ウソではないと思います。 だったら、像ももっと美人にすればいいのに。 ※この写真は、イロイロな角度から撮影して 最も美人に撮れていたものを採用しています。 |
ここで135年前に戦って死んだ人がいるとは・・・。 たったの135年前ですよ? |
中野竹子が戦死した戦いを「柳橋(涙橋)の戦い」といいます。 という訳で柳橋(涙橋)へ行ってみましょう。 柳橋(涙橋)に到着です。 |
涙橋の由来 柳橋は会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川にかかる橋で、付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったので、古くは楊柳橋と称された。 会津藩が上杉時代の慶長5年(1600)に上杉景勝が石田三成と計り、徳川家康を牽制し12万人を動員、西へ半里程の如来堂に幻の神指城を築造する際、要所である橋を長さ17間、幅3間余の欄干のある堅牢な柳橋とした。 柳橋の200m程下流の薬師河原には、藩政時代の処刑場があり、特に昔キリシタン弾圧により寛永12年には会津キリシタンの中心人物である横沢丹波と外人宣教師など60余名が捕らえられ、一度に処刑されたところで、キリシタン塚がある。 戊辰の役では、娘子軍(女白虎隊)の隊長・中野竹子が柳橋の激戦で敵弾に倒れ殉死し碑もある。 この場所には休み小屋があって、刑場にひかれる罪人は井戸の水で家族らと水盃を交わして別れを惜しんだところから、通称涙橋と呼ばれ、昭和初めの木橋には涙橋とも記されてあった。 平成9年2月吉日 橋本 山浦敏人(75歳)記 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ うーん、↑を書いてくれた同郷の有志にこんな事を言うのは何ですが、娘子隊(じょうしたい)を「女白虎隊」と呼ぶのはおかしいと思います。 一応「隊」という名前ですが、実際は個人個人で、自らの意思で戦った女性達の集まりです。「軍隊」ではありません。ですから、正式な会津藩の軍隊である「白虎隊」とは全然違います。 「会津の殿様は、女性まで戦わせて酷いヤツだな(嘲笑)」と言う人がいると聞きました。 ・・・そんな訳ありません。 誇り高き会津藩が、あえてか弱き女性を前線で戦わせるとお思いですか? それに、女性まで戦わせたら、会津藩が戦力不足だとアピールするも同然です。 軍事的な面でも戦わせるはずがありません。 中野竹子たちは、自らの意思で戦ったのです。 それを、第二次世界大戦では日本国民を「一億総火の玉」にするために、娘子隊が例にされ、利用されました。 白虎隊が忠君愛国の例として利用されたのと同じですね。 白虎隊や娘子隊が守りたかったものを踏みにじった方々が牛耳る政権に、自らの死を利用、悪用されるとは、浮かばれないでしょうねえ。 |
この井戸の水で盃を交わしたのだそうです。 |
涙橋の全景です。 いつもは車で通り過ぎてしまうので こうやってあらためて見るのは初めてです。 |
橋の上。普通に車が通っています。 |
橋の上から北を眺めます。 先ほどご覧いただいた「中野竹子奮戦の地」は、 ここをずーっと行った所です。 思ったよりも離れています。 |
ついでに、橋の南側。 あまり人の手が入っていないように見えます。 135年前もこんな感じだったのでしょうか。 参考資料:「図説 会津の歴史 下:郷土出版社」 戊辰戦争で戦った女性たち |