会津満喫ツアー・1
滝沢本陣〜滝沢峠(船石)
旧・滝沢本陣。国重文。 白河街道に繋がる滝沢口に、延宝7年(1679)に開設された。 歴代藩主が領内巡視や参勤交代の折に休憩をしたり、 旅装を整えたりするのに用いられた。 戊辰戦争では大本営となり、当時の藩主松平容保は ここで白虎隊に出陣を命じた。 座敷には当時の砲弾痕や刀傷が残り、闘いの激しさを物語っています。 つまり、白虎隊はここから出陣し、滝沢峠を越えたわけです。 今から我々も同じ道筋を通ってみようと思います。 |
・・・目印にしていた木の道標が・・・朽ちている(^^; 滝沢峠の入り口付近は住宅街になっており おじーさんに「どこに行くんだ?」と聞かれました。 「これから滝沢峠を越えるんですよ。」 「じゃあこっちじゃねえよ〜。あっちをまっすぐ登って行くんだ」 有難うございます。 おじーさんの方から声を掛けられるって事は・・・? 旧・滝沢峠(白河街道) この峠は、天正19年(1591)に、時の会津領主蒲生氏郷により、 若松から白河に至る白河裏街道として開かれました。 寛永4年(1627)に会津に入部した加藤嘉明も、街道の整備に力を入れましたが 雨天や雪解け時などには泥道となって往来に困難したため、 その子明成は寛永9年(1632)から11年((1634)にかけて、 延べ8万人の人足を動員して石畳道に改修、 冬坂峠の表街道を廃止して滝沢道を表街道としました。 以来大名の参勤交代、旅人の往来などに利用されて、 大変賑わった街道でありました。 |
猫・捕獲!! わしわしっ!! |
住宅街を抜けると、そこは・・・。 時が止まったかのような、古の薫りただよう石畳の道。 参勤交代で歴代藩主や武士達が登った道です。 また、白虎隊もここを登って出陣して行きました。 どんな気持ちで登っていったのでしょうか。 しみじみ・・・。 まさか母成峠方向から攻めてくるなんて思いませんよ。 だから、若い白虎隊は出陣させる予定はなかったのです。 その証拠に、白虎隊は殿の警護をしていたのですから。 ※もちろん車は通れません。 |
ちょっと登ると、もう山って感じ。 向こうに見えるのは背炙山? |
石畳が綺麗に残っています。 かつてこの道が賑わった時代に想いを馳せつつ。 ※このあたり、傾斜がけっこうキツイです。 |
舟石 イザナギノミコト・イザナミノミコトが会津に天降らせ給うた際、 投じられた鉾が化して八角の水晶となった。 そこで伊舎須弥神社として崇め、宮を号して八角と云う、 と言い伝えられています。 その宮というのは会津若松市内にある八角神社のことで 古くは伊舎須弥神社と呼ばれておりました。 また、神が天降る際に乗り来たった船が化して石となったのが、 この舟石であるといい、昔から名所でありました。 ハァ〜恋(鯉)の滝沢 舟(鮒)石越えて 親は諸白 子は清水 ↑この唄については「民謡会津磐梯山」のページ参照。 |
戊辰戦争で西軍が滝沢峠を突破して攻めてきたとき、 この舟石の上で切腹して果てた会津藩士がいたそうです・・・。 |
紅葉にはちょっと早いですが すっかり秋です。 暑くも無く寒くもなく・・・。 |