無量寿山 長命寺 真宗 大谷派
戊辰戦争の修羅場を生き抜いた寺です。
東軍墓地もあります。
「この長命寺という名を聞けば、戊辰の役における会津若松の市街戦で 最も苛烈なる戦場となった所だ、ということは 世の識者には十分承知されるところである」 そうなんですよ〜。 東軍墓地もありますし、個人的に、この寺は最重要ポイントの1つだと思います。
平成16年現在の築地塀です。 五本の白線は別格本山であったことを表し、 東北では三ヶ所しか無いと言われています。 ・・・写真で見たのは、もっともっと酷い痕でしたが やっぱり修復されたようですね。 この穴は直径5センチもありません。
砲弾による穴は、小さいものを少数だけ残して修復したようです。 その穴が、先ほどご覧いただいた小さい穴です。 やっぱり、当時の様子を知るには写真しかないようですね。 という訳で・・・。
たったの136年前、ここでそんな事があったとは・・・。 自分が戦死するであろう事をあらかじめ考え、 自分の命日になるであろう日付と名前を書き記し、それを懐中し、 郷土と誇りと正義を守るために散っていった方々の事を思うと目頭が熱くなります。 正直、こんなに身近な場所の歴史がこれか・・・と、 今更ながら呆然としてしまいます。
本堂です。 この寺は、戊辰の役で全て焼失しました。 昔の面影を留めているのは築地塀と親鸞上人の御影のみです。 碑文によると、檀家の方々が力を注いで「隆盛旧観に近からしめん」と 努力なさったようです。 東軍墓地は、本堂に向かって左側にあります。 方位で言ったら南側です。 これが東軍墓地です。これ1つだけです。 周りにあるのは普通のお家のお墓です。 戊辰殉難者の墓は、いつも大勢が一箇所にギュウギュウ詰めになっています。
あーあ、人として最低限の事まで禁止されたとは・・・。 先人達の気持ちを推し量るに、やりきれませんよ本当。 戦死者名はありません。 とても立派な西軍墓地とは大違いです。 墓標の裏側です。
古い漢字とか、風化してしまって読めない字がありますが 何となく意味は分かります。 大きめに載せましたので、読める方はどうぞご覧下さい。 それにしても、会津の史跡で「官軍」って書いてあるのを久しぶりに見ました。 会津では、東軍(旧幕府軍)と相対した存在を、絶対に「官軍」とは書きません。 ですから、見たことがありません。 この墓標は明治11年に、幾度とない嘆願の末に建てる事が許可されたものですから 裏に刻む文字も随分と制約を受けたのだろうな、と推察します。 ↑「官軍」表記も然り。 我々の先祖が、あちらを「官」だと思っていたはずがありませんから。 という訳で、長命寺を後にし この流れで西軍墓地へ向かいます。 長命寺には綺麗なアヤメがさいていました。 5月ですから。 参考資料 ・幕末会津藩(歴史春秋社) ・会津の寺(歴史春秋社) 戻る |