松平家廟所
2003.9




会津若松市の整備&発掘が進む前に
廟所に参ってきました。


※レポの数字と地図とを対比させながらご覧下さい。

地図は右クリックの「新しいウィンドウで開く」を選び、
窓を二つ並べてご覧いただくとよろしいかと思います。

レポを補完するために、教育委員会の方に教えていただきながら
もう一度行ってきました。そちらは
青字で加筆しました。

墓所の概要

史跡会津藩松平家墓所、通称「院内御廟」は会津若松市東山町石山にあります。
その規模は、東西約545m、南北271m(約15,000u)と、とても広大で、
2代藩主から9代藩主までの歴代藩主と、藩主の家族が葬られています。

ちなみに初代藩主である保科正之は猪苗代湖の土津神社に境内に葬られています。

院内御廟は、明暦3年(1657)に初代藩主の嗣子正頼が亡くなったときに墓所として
院内山を切開いたのが始まりで、その後、3代藩主正容の時代の享保14年(1729)に
入の峰を墓所と定めています。こうして現在の墓所の原型が成立しました。

2代藩主が仏式で葬られている他は全て神道形式で葬られているのが特徴で、
初代藩主の墓所の形態にならっています。

その構造は「碑石」と呼ばれる藩主の事跡を記したものを前面に置き、
一段高い個所に石灯籠を並べ、その奥に「表石」を建てています。

そして、もっとも奥まった場所に藩主が葬られている円墳があり、その頂上には八角形の「鎮石」を置いています。

なお、院内御廟は昭和62年(1987)に国史跡に指定されており、
平成13年(2001)には会津若松市の所有となっています。







入り口。殿は相変わらずりりしいです。

「まちに歴史あり
〜会津の先人たち〜
松平容保(会津松平藩九代目藩主)
天保6〜明治26年(1835〜1893)

明治維新において幕府側の責めを一身に背負い最後まで戦った悲運の藩主です。
文久2年(1862)尊皇攘夷の嵐が吹き荒れ、乱れた京都の治安を取り戻すために幕府は京都守護職という特別職を作り、これを容保に任命します。すでに幕府の力も衰えを見せており、非常に困難な任務であったにもかかわらず藩祖の遺訓を守り容保はこれを引き受け、藩をあげてその任務にあたりました。
一千名を超える藩兵と共に京に駐留し、公武合体のために全力を尽くしたのです。このとき有名な新撰組も会津藩の預かりとなって活躍します。京の町は治安を取り戻し「蛤御門の変」などを通して容保は時の天皇・孝明帝の絶大な信頼を得るに至ります。しかし慶応2年(1866)将軍家茂、孝明帝と相次いで急逝、世情は急激に反転していきます。
倒幕派は新帝を擁して力を強め、将軍慶喜は大政奉還、慶応4年正月には「鳥羽伏見の闘い」が起こり幕府軍は敗退します。遂に国を二分した戊辰戦争の戦火は東国へと移り、会津は西軍の最大の標的とされ、容保の恭順の意も受け入れられることなく会津藩は本州最北の下北半島に斗南(となみ)藩として移る、という過酷な運命をたどらなければなりませんでした。
容保はその後、謹慎生活の後に日光東照宮の宮司などを勤め、失意と沈黙の日々を過ごし58歳の生涯を閉じました。
この場所の奥に見える山一体が松平家の墓所「会津松平家院内御廟」となっており、容保もここに眠っています。神道に則った巨大な墓石がうっそうとした森の中に点在しており、荘厳な空気が漂っています。(冬季は足場が悪いのでご注意ください)


・・・・・・・・

どうして殿が失意のうちに生涯を閉じなきゃならないのか・・・。





廟所へは横道を入ってゆきます。
真似っこポーズは基本。

長袖長ズボン、歩きやすい靴が望ましいです。
蚊が沢山いますし、ちょっとしたハイキングなので。






  

石灯籠の中で猫が涼んでいました。
石は冷たいし、風通しは良いしで涼しそうです。









「魂を揺さぶる三日間」
今年の会津秋まつりのポスターです。
戊辰戦争における鶴ヶ城開場が9月22日なので
きっとそれと合わせた日程になっているのです。

毎年、9月22、23、24の三日間です。

特に23日は秋分の日なので皆様休日ですよね?
是非お越しください。











民家を抜け、山のふもとに到着。

突き当りを右折です。

「松平家廟所(国史跡指定)
会津藩主松平家歴代の墳墓があるこの山は、明暦3年(1657)、正之の長子・正頼死去の時に開かれ、保科松平家の墓所に定められたと伝えられている。2代正経(まさつね)は仏教で、3代正容(まさかた)から9代容保(かたもり)までは神道で葬られており、ほかに家族や子孫の墓もある。神道の廟所は碑石・表石・鎮石の3体からなっている。」







   


右側には天然水が溢れています。
飲めるかどうかは分かりません。






  

階段を上ります。

左側にあるのは「歴代松平家愛馬之墓」です。
馬も大切にされているんですね









関所のような雰囲気です。
ここからいよいよ院内御廟って感じです。

当時、ここから先に一般人は入れませんでした。







  

古い石畳が続きます。

観光客もほとんど訪れない場所なので、石畳が苔むしています。

つまり、観光地化してしまうと
この苔は無くなってしまうんじゃないかと。

勿体無い〜。











昔の排水路などを発掘調査しているそうです。













左に曲がると「西の御庭」です。
神道と仏教の形式の墓が混在しています。









  

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「従四位侍従源正頼之墓」

保科正之の次男・正頼の墓です。

そもそもはこの次男のためのスペースだったそうです。
その後、墓域は拡張され、歴代藩主の側室や子供達が埋葬されます。

↑こういう形は神道だそうです。


神式で埋葬されるのは、藩主もしくはそれに順ずる人物に限られます。

※神式に見えても「○○院」とあるのは仏式です


良い石を使っているそうです。この墓所で一番古い墓がこれです。
とても大きくて立派な石でできています。










回りを囲む石。

横石は1つの石から作られた物で凝っています。












神式に見える墓も、○○院とあるのは仏式です。
藩主の母などは、一見神式に見えて仏式だったりします。

墓の石垣にこういう出っ張りがあるのが女性の墓の特徴だそうです。
花のモチーフが浮き彫りになっていてかわいらしいです。











これも女性の墓です。仏式です。
二本の石柱にある二つのでっぱり、分かります?

ここに埋葬されている数多くの方々は
全て調査済みで分かっているそうです。

・・・・全員載せるのは勘弁してください。













「中之御庭」です。ちょっと左折して寄ってみます。







「源五位正純之墓」

ここは先ほどの正頼の弟の墓です。保科正之の五男です。











兄・正頼の墓と同じスペースに埋葬してはまずいだろう」という家臣等の意見により、
弟の墓は兄より低いスペースに新たに作られました。

そもそもは弟・正純の為のスペースでしたが、墓域が拡張されて
沢山の方々が埋葬されています。

↑これも神道の形式です。
お兄さんのより小さいです。









  

保科正之の側室や、藩主の子供達の墓です。

ああ、それにしても西之御庭と中之御庭の謎が
ようやく解けました!!

嬉しい〜。教えていただき有難うございました(^^)











大きさが分かりにくいので友人に写ってもらいました。
これでお分かりかと。

石、想像以上に大きくて立派でしょ。

やっぱり、人が写っているとスケール感が分かってよいですね。








メインの通りに戻り、上を目指します。













分岐点です。どちらからでも行けるのですが
今回は左側の「歴代藩主廟所」とある方へ進みます。

帰りは拝殿経由にしますので。










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2代藩主・正経の墓です。
この藩主のみ仏教の形式で葬られています。

しかし、亀石は無いものの
神式の碑石(右に見えるもの)があるのが珍しいそうです。


階段が無いので、本来はこの位置からお参りするのだろう、との事です。

墓の形式が8代藩主と似ているので、
9代藩主容保が改修工事したのでは、との事です。

※どうして2代藩主が仏式なのかというと、本人の生前の意思だそうです。

↑これもずっと謎だったのです。
教えていただき有難うございます〜。楽しすぎ(^^)













「鳳翔院殿」が法名です。










  



メインの道に戻りました。登りが続きます。
昔の人は草履などで登ったのですよね。お疲れ様です。

ここを登りきれば神道で葬られた
歴代藩主(3〜9代)の墓所になります。


神道で葬られた区域へ→