会津満喫ツアー・5

白虎隊奮戦の地〜夜泣き石



ネズミのはやにえ!?

・・・いえいえ、がまの穂です。こんな風になるとは驚き。





ふっさりとし出したところ。






ふわふわ。






古戦場って感じ。







という訳で、古戦場です。
といっても、たった135年前の話ですけど。







この一角の全景。





戊辰戦没
滝沢峠 戸ノ口原両軍殉難者
九十八士 供養塔

会津がエライのは「両軍」ってところです。

会津人は西軍により、半年に渡って死体埋葬を禁じられて、
腐乱した死体が町じゅうに溢れていたというのに・・・。

あまりに可哀想なので、こっそり埋葬しても、ばれると
西軍に「掘り返して元に戻せ」って言われたのですよ。

たった135年前に、こんなに酷い仕打ちをされたとは信じられません。

※白虎隊の死体も、手をつけることは禁じられました。
あの飯盛山の自刃場所に数ヶ月放置です。



それなのに、ちゃんと西軍の冥福も祈っているのですよ会津は。
まあ、これが当然なのですけどね。
そして、会津人はその「当然のこと」さえ禁止されたということです。






斜めから。
何かを感じる人には感じるかも。




夜泣き石

芦名時代、事情あって捨て子にされた子供が、
夜中に魔物に呼び寄せられ食い殺されようとした時、
夜明けまで大きな石がしっかりと子供の足を押さえて
魔物に食い殺されるのを防いだと言われている。
今でも子供の左足型のようなものが残っている。

また、夜泣きする子をおぶって、ここへお参りすると
夜泣きがぴたりと止まるという噂が立ち、多くの母親が子供を連れてお参りした。

それ以来、夜泣き石と呼ばれている。


たしか、魔物は母親の声で子供を呼んだんですよ。





戊辰戦争戦死者の墓群

戊辰戦争は慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の闘いに端を発し、
会津藩は薩長を中心とする西軍と同年8月以降激戦を展開した。

この地はその際8月22日から23日早朝にかけて、
白虎二番士中隊が西軍を迎え撃った場所で、
多くの戦死者が出たとされている。

白虎隊は、この地を抵抗を重ねながら敗走し、飯盛山の悲劇へと進んでいった。

会津藩は、一ヶ月後の9月22日に若松城を開き降伏したが、
この一帯には戊辰戦争にかかわる墓碑や悲話が今も残されている。
平成3年12月
河東町教育委員会







キモイヨー。

握りこぶしくらいあるし。




 

帰り道で、またあけびをゲット!!
取ってくれた人達はあけびを好んで食べないそうで、
もらっちゃいました(^^)
まだよく熟れていませんでしたが(^^;



次へ