阿弥陀寺
あみだじ
戊辰戦争殉難者の墓や、斎藤一の墓があります。
正面が御三階。 古い解説板によると、本堂は 右側の大きい建物ではなく、この御三階のようです。 しかし古い解説板なので、もしかしたら右側の新しい建物が本堂になっているかもしれません。 どちらなのかよく分かりません。 ※分かりました。やはり現在の本堂は右の大きな建物だそうです。 「戊辰戦争の悲しみを残す阿弥陀寺」 阿弥陀寺は慶長8年(1603)蒲生秀行の時代、下野国に生まれた良然が開山しました。 明治元年の戊辰戦争後、会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されませんでした。幾度もの嘆願で埋葬が許可されたのは、翌2年2月のことでした。 埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には1300柱にものぼる遺骸が埋葬されました。 春・秋の彼岸には手厚い供養会が行なわれています。 境内南にある「御三階」は、元は鶴ヶ城本丸内にあったもので、明治3年に移築され本堂として使用されました。内部は4層で、秘密の会議が行なわれたと言われます。 阿弥陀寺の入り口に写真のように大仏様がありましたが、 太平洋戦争で供出され、今では台座が残るだけです。 そもそも、この大仏様は、もともとは別の寺にあったのだそうです。 西軍が金属として売り払う為に、大仏様をバラバラにして運んでいて、 この辺りで止めろと言われ、ここ阿弥陀時に置かれたんだそうです。 そして第二次世界大戦で供出・・・。 この大仏様も西軍&軍国主義の犠牲って訳ですね。 |
紅葉の時期に撮影した写真を使用しています。 |
御三階を横から。 外観は3層ですが、秘密の小部屋がひとつあるので 内部は四層です。 秘密の小部屋では密談などをしたそうです。 もともとは鶴ヶ城本丸にあったものです。 |
古い解説板も残っていました。 阿弥陀寺 阿弥陀寺は浄土宗に属し慶長8年(1603)良然和尚の開山である。 本堂は旧鶴ヶ城の御三階で藩公の密議また月見などされた所である。 玄関は同大書院玄関を移したものである。 境内にかつて青銅1丈3尺の大仏があったが、太平洋戦争中供出し台座のみ残っている。 正面の拝礼殿には明治戊辰戦争役会津藩殉難者の霊及び家老萱野権兵衛の木造を安置している。 萱野権兵衛(1500石)は戊辰の役諸処に転戦したが、奥羽諸般処分の際会津藩抗戦の責任を自ら進んで負う処あって明治2年5月18日江戸保科邸にて割腹自刃した。享年42。 後、此堂に西南役の戦死者・佐川官兵衛他68名を合祀した。 官兵衛は戊辰役鬼佐川と呼ばれた勇将で、明治10年の西南役山地元治将軍の麾下にあって戦死し、其子直諒は日露の役遼陽に戦死した。 鐘楼は殉難者慰霊のため明治31年9月鋳造建立されたもので、 老若男女挙って銅銭 小判 銅鏡 銀簪 等を提出し協力して成ったもので 戊辰悲史を語るべき記念物である。 |
「明治戊辰戦役殉難者墓」 どうしてここ阿弥陀寺に埋葬されたのかというと・・・ 「罪人塚に一番近い寺だから」と聞いた事があります。 もともとは「罪人塚に埋葬しろ」と言われていたくらいですしね。 それ以前に、半年に渡って「埋葬する事さえ禁止」されていましたけどね。 こっそり埋葬したのがバレると厳罰・投獄ですし、掘って元に戻せと言われたそうです。 野犬や野鳥に食い荒らされ、腐乱した死体が町じゅうに溢れていたんですよ。 藩士だけでなく一般人の遺体も。 たった百年ちょっと前に。 武士道なんて皆無。 ラストサムライのトム・クルーズもびっくりですよきっと。 |
狛犬がいるって事は・・・。 神式なんでしょうか? 会津人の墓は神式が多いですけど、寺の敷地内でも神式なのでしょうか? きっと神仏習合なんですよね? |
墓には会津葵がありました。 |
半年後、西軍から埋葬許可がようやく下りても、罪人扱いで 香花を手向けることは禁止されました。 死体の扱いも、穴を掘って数十人を一箇所に詰め込む方法でした。 会津藩の墓所は、地面から一段・・・というか、かなり高くなっています。 横から見ると分かりやすいです。 これは、一箇所にあまりに沢山の人をギュッと埋葬したため 遺体が掘った穴からはみ出て盛り上がってしまったのだそうです。 もちろん棺になんか入れられずに埋葬されています。 遺体そのままで、これだけ盛り上がったのです。 書籍には2000人余が埋葬されている、とありました。 ここを掘れば、郷土の先人たちの骨がすぐコンニチワ!でしょう。 |
埋葬後も、数年間に渡って墓碑を立てることは禁止されていました。 ここ阿弥陀寺は明治6年に許可が出たそうなので、5年以上禁止だったという事ですね。 ※長命寺は明治11年にならないと許可が下りませんでした。 ようやく許可が下りても、墓標は罪人の墓という意味合いで 「戦死墓」の三文字に限定されました。 会津人は当初、墓標を「殉難之霊」としたようです。 しかし即刻撤去を命じられ、以後どのように嘆願しても許されなかったとか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 全てにおいて大人げないですね。 ここまでやるのって、結局自分達に自信が無かっただけじゃないんですか? 我々をとことんまで貶めることで、自分達の正義を 確認・アピールしたかっただけじゃないんですか? 正義というよりは大義名分ですね。 なんてったって、会津藩は6年間も藩命を賭して帝と京都を守ったのですから。 それを知っているからこそ、西軍もここまで会津を貶める必要があったのでしょう。 そしてこれらの事実は「明治維新」関係の書籍には書かれていないのです。 皆さんご存知なかったでしょう? 下手をすると、蛤御門の変さえ割愛されているくらいですから。 それにしても、昔の500円札が岩倉具視だったのってスゴイ事です。 |
会津藩の人々の墓の後ろ側には 斎藤一の墓があります。 紅葉の木の下です。 |
新撰組隊士 斎藤一(藤田五郎)の墓 斎藤一は、1844年御家人の父・山口祐助、母マスとの間に生まれた。 初名を山口一、のち斎藤一に改めた。 1863年(文久3年)壬生浪士組のちの新撰組に参加し、副長助勤、三番隊隊長として活躍、沖田総司、永倉新八と並ぶ剣客で剣術師範も務めた。池田屋事件にも参戦。 その後、伊東甲子太郎らが、御陵衛士を拝命し、新撰組から分離した時、伊東に同調して離脱、しかし局長の近藤勇の密命によるものといわれ、油小路で伊東らが暗殺された後、新撰組に復帰し山口二郎と改名。 鳥羽伏見の戦い等を経て、会津若松城下に入り負傷した土方歳三に代わって新撰組隊長となり、会津戊辰戦争を戦った。しかし西軍が城下に迫った時「会津侯(松平容保)あっての新撰組、会津を見捨てることは出来ない」と隊士十余名と会津に残り仙台へ向かった土方と別れた。 会津藩降伏後は一瀬伝八と名乗り越後高田に幽閉。明治3年斗南へ移る際藤田五郎と改名。その後上京し警視庁に入り、容保の媒酌により会津藩士高木小十郎の娘時尾と結婚。警視庁においては西南戦争へ出陣するなど活躍。その後東京教育博物館等へ奉職し、1915年(大正4年)72歳で逝去。 後半生を会津人として生きた本人の希望により、ここ阿弥陀寺に眠っている。 新撰組殉難の地・如来堂レポはこちら。 >「会津を見捨てることはできない」 カッコいい〜。恩義を忘れない人だ。 そういう人だからこそ、殿も媒酌人を引き受けたのでしょうね。 |
斎藤一の墓には名刺入れがありました。 友人は名刺を入れていました(笑) 住職からお返事がきたりして?(笑) |
さらにその裏には墓石が沢山ありました。 不勉強につき、どういう方々の墓石なのか分かりません。 |
という訳で、今日一日でいろいろ廻ることができました。
この頁の参考資料
「幕末会津藩:歴史春秋社」
など。
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