近藤勇の墓
こんどういさみのはか



萱野権兵衛・郡長正の墓から
近藤勇の墓へ向かいます。

標識が多すぎます。
多すぎる事に気付いてから撮影していますので
本当はもっとスゴイ数です。





絶対に迷いそうに無い場所に
標識が・・・。






でもきっと親切で設置してくださっているんですよ。






山道を進みます。
落ち葉で滑ります。






天寧寺が設置してくれている標識だけではなく・・・





ライオンズクラブのもあるので
数が多いのです。







下手をすると、二つ並んじゃってます。





標識のおかげで(?)迷わずに到着です。






この写真は書籍などでよく見ますよね。
ここは特別な場所ではなく、一般の方々の墓地の中にあります。

近藤勇

近藤勇は、天保5年(1834)東京都調布市に宮川久次郎の三男として生まれた。幼名は勝五郎。
1848年、天然理心流剣術の三代目宗家、近藤周助のもとに入門して剣術を学ぶ。翌年、周助の養子となって名を勝太と改め、さらに近藤勇昌宣と改称する。

文久元年(1861)、天然理心流の宗家四代目を継ぐ。その翌年、幕府が募集した浪士隊に参加し、翌文久三年に上洛したのである。
この年の三月に京都守護職松平容保の預かりとなり、新撰組(この名称は実際には8月から使用されたともいう)は京都における会津藩の支配下に入る。

以後、尊皇攘夷派と称する不逞浪士の取り締まりに当たった。

元治元年(1864)6月5日夜、新撰組は尊皇攘夷派の浪士たちが会合している池田屋を急襲した。これがいわゆる池田屋事件である。

会合していた浪士たち(実際は長州、土佐、肥後の藩士たちも入っていた)は、
京都に火を放ち
騒ぎに乗じて天皇を長州に移し参内してくる中川宮(朝彦親王)をはじめ公武合体派の公卿たちを捕らえ松平容保を暗殺するという恐るべき計画を立てていたのであった。

近藤と土方は二手に分かれ、先に着いた近藤はわずか数人で斬り込んだ。遅れて来た土方らの手のものと合わせても30名程であったが、激闘数時間の末7名を斬殺、23名を捕縛した。

慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いに敗れた新撰組は、千葉県の流山に沌集していたが、新政府軍に包囲され降伏する。捕らえられた近藤は江戸の板橋において斬首され、その首は京都の三条河原晒された。

現在、天寧寺にある近藤の墓は、東山温泉で足の傷の養生をしていた土方歳三が、函館に向かう前に建てたものである。法号「貫天院殿純忠誠義大居士」松平容保から贈られたと言われている。

※墓には、実際には近藤の首ではなく、遺髪か遺品が入っているのであろう。








近藤勇藤原昌宣之墓

天保5年10月9日武州調布町上石原(東京都調布市)の卿士宮川久次郎の三男として生まれる。幼名を勝太という、自宅に道場を構え15歳にして天然理心流近藤周助の代稽古をつとめ当時近藤門下の麒麟児として近郷に名を馳せた。

師近藤周助は父宮川久次郎に懇請し勝太17歳の時養子として迎える。元服して名を勇と改め、剣理を極め後試衛館を継ぐ。塾頭に沖田総司、土方歳三、山南敬助、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、客分に永倉新八らを率いた。その後郷に上り新撰組の母体となった。

新撰組の活躍は、文久3年から慶応3年に至る5年間である。中でも最も著名なものは新撰組最盛期の池田屋騒動である。

長州の志士古高俊太郎の自白により、元治元年6月20日を期して京都御所に火を放ちその虚に乗じ朝廷を長州に奪行しようと企図し、同志が祇園祭を幸いに池田屋に集結謀議中を新撰組の察知する所となり、出動後世に残る大惨劇となった。

新撰組はその後鳥羽伏見の戦いに際し、伏見警備につくも新式火器の前に利なく敗走、海路江戸に集結残余の者をまとめて甲陽鎮撫隊を編成。勝沼の戦いで再び敗北、その後流山に集結していた。勇は大久保大和と称していたが、元隊士加納道之助の密告により逮捕され、土佐藩谷千城の厳命により辞世2詩を残して斬首の刑に処せられた。

京都守護職の直属であった新撰組隊長の首が松平容保公の居城の地に、副長土方歳三の手によって建墓された首塚と語り伝えられている。

1977年10月
会津若松ライオンズクラブ






辞世です。





これも辞世です。


「近藤勇の御霊に捧ぐ」
参拝記念にあなたのお心をご記帳ください。
会津若松ライオンズクラブ


誰でも見ることが出来るものですから、
あまりヘンな書き込みはしないほうが良いですよ(^^;






というわけで、愛宕神社へ向かいます。
当然、標識は逆向きになります。


この頁の参考資料
「図説 会津の歴史 下:郷土出版社」
「会津人物事典:歴史春秋社」
「幕末会津藩:歴史春秋社」
など。


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