近藤勇の墓
こんどういさみのはか
萱野権兵衛・郡長正の墓から
近藤勇の墓へ向かいます。
標識が多すぎます。
多すぎる事に気付いてから撮影していますので
本当はもっとスゴイ数です。
絶対に迷いそうに無い場所に 標識が・・・。 |
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でもきっと親切で設置してくださっているんですよ。 |
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山道を進みます。 落ち葉で滑ります。 |
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天寧寺が設置してくれている標識だけではなく・・・ |
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ライオンズクラブのもあるので 数が多いのです。 |
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下手をすると、二つ並んじゃってます。 |
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標識のおかげで(?)迷わずに到着です。 |
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この写真は書籍などでよく見ますよね。 ここは特別な場所ではなく、一般の方々の墓地の中にあります。
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近藤勇藤原昌宣之墓 天保5年10月9日武州調布町上石原(東京都調布市)の卿士宮川久次郎の三男として生まれる。幼名を勝太という、自宅に道場を構え15歳にして天然理心流近藤周助の代稽古をつとめ当時近藤門下の麒麟児として近郷に名を馳せた。 師近藤周助は父宮川久次郎に懇請し勝太17歳の時養子として迎える。元服して名を勇と改め、剣理を極め後試衛館を継ぐ。塾頭に沖田総司、土方歳三、山南敬助、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、客分に永倉新八らを率いた。その後郷に上り新撰組の母体となった。 新撰組の活躍は、文久3年から慶応3年に至る5年間である。中でも最も著名なものは新撰組最盛期の池田屋騒動である。 長州の志士古高俊太郎の自白により、元治元年6月20日を期して京都御所に火を放ちその虚に乗じ朝廷を長州に奪行しようと企図し、同志が祇園祭を幸いに池田屋に集結謀議中を新撰組の察知する所となり、出動後世に残る大惨劇となった。 新撰組はその後鳥羽伏見の戦いに際し、伏見警備につくも新式火器の前に利なく敗走、海路江戸に集結残余の者をまとめて甲陽鎮撫隊を編成。勝沼の戦いで再び敗北、その後流山に集結していた。勇は大久保大和と称していたが、元隊士加納道之助の密告により逮捕され、土佐藩谷千城の厳命により辞世2詩を残して斬首の刑に処せられた。 京都守護職の直属であった新撰組隊長の首が松平容保公の居城の地に、副長土方歳三の手によって建墓された首塚と語り伝えられている。 1977年10月 会津若松ライオンズクラブ |
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辞世です。 |
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これも辞世です。 |
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「近藤勇の御霊に捧ぐ」 参拝記念にあなたのお心をご記帳ください。 会津若松ライオンズクラブ 誰でも見ることが出来るものですから、 あまりヘンな書き込みはしないほうが良いですよ(^^; |
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というわけで、愛宕神社へ向かいます。 当然、標識は逆向きになります。 |
この頁の参考資料
「図説 会津の歴史 下:郷土出版社」
「会津人物事典:歴史春秋社」
「幕末会津藩:歴史春秋社」
など。
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