愛宕神社
あたごじんじゃ
近藤勇の墓を後にして 道を進んでゆきます。 |
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あ、朽ちています。 |
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愛宕神社の社殿の真横に出ました。 愛宕山由来 往昔 会津門田の庄小田の里谷地沼に大蛇すみ人を害する事頻なり、 49代光仁天皇天応元年参河国の人にて玉泉という修験者 沼の側に愛宕山権現を勧請した 以来大蛇の害はなかったという、 至徳元年 領主佐原直盛 殿を愛宕町に遷座す、 天正18年、蒲生氏郷公当所に四方30間の山を寄付し、 愛宕町より遷座した、享保15年 6世別当順□ 現在の社殿を建立した。
当社は、古来代々修験者奉仕の神社にて 普賢菩薩別当金蔵院が持仏の勢至菩薩を奉斉してあるため 辰巳、午年の守り神として信仰あつく 火伏せの神、商売繁盛、学問成就の神として、 月次祭(毎月23、24日)特に正月23日、24日は会津一円よりの参詣がある。 且 男25才、42才、女19才、33才の開運厄祓、61才の年祝、 七五三詣り、交通安全、安産祈願に霊験がある。 境内社
社殿南方に新撰組隊長土方歳三建立の 隊長近藤勇の墓がある、 北方に鳥羽伏見の戦いの折唐御門前の激戦にて 一番槍の窪田伴次の碑がある 会津若松市指定文化財「絵馬」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ > 北方に鳥羽伏見の戦いの折唐御門前の激戦にて 一番槍の窪田伴次の碑がある うわー見逃してしまいました。 また今度行って撮影してきます。 |
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愛宕神社。 |
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石灯籠には「文久三年」の文字が刻まれています。 |
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近藤勇の墓からの道は、社殿の真横(この写真で言えば右上)に繋がっています。 今、真中に見える石の階段を下りて振り返ったところです。 青いビニールシートは雪囲いだそうです。 |
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あ、殿の胸像が。 |
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涼しげな目元が素敵です。 |
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狛犬。 最近神社に行くと必ず狛犬を撮っています。 そのうち狛犬写真コレクションでも・・・? |
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それでは社殿から階段を使って 山を降りていきます。 この石段、実は非常に長いのです。 この写真には、もちろんふもとまで写っていません。 |
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ずんずん下りてゆきます。 まてー。 |
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この石畳、鶴ヶ城に使われた石のリサイクルらしいのですが 年代その他、全く分かりません。 何を見れば載っているんだろうか・・・? 推測ですが、すぐ近くに慶山という良質の石が採れる場所があるのですよ。 (松平家廟所の石も慶山のものです。数百年経っても美しく堅牢です) そこで切り出して、城は足りたからこっちに回した、とかでしょうか? わざわざ城に運んでいらなくなった、という訳じゃないのではと思います。 城のほうが慶山より遠いし。 |
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今下りてきた階段を見上げてみました。 |
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菊ももう終わりの時期ですね〜。 |
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階段の右脇には地蔵菩薩が。 ・・・首の部分で割られているのは、 明治政府の愚策、廃仏毀釈のせいでしょうか? 日本人が長く守り伝えてきた古き良きものを否定しても 上手くいくはずがありません。 |
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鳥居です。 ようやくふもとが見えてきた感じ。 |
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紅葉も終了ですね〜。 |
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と思ったら、水の中には美しい紅葉が。 水のお陰で枯れずに色が残ったのでしょうか。 圧巻でした。 |
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唐錦。 |
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ようやくふもとです。 振り返って見上げてみました。 |
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愛宕神社のみに用事がある場合は、 ここから石段を登って社殿に行くわけです。 それでは、車を置いたあたりに戻ります。 |