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萱野権兵衛・郡長政の墓
かやのごんべえ・こおりながまさのはか


萱野権兵衛父子の墓

父・萱野権兵衛は、明治戊辰戦争の時、会津藩の国家老で事実上の責任者として激務にあたり、その後敗戦処理に際しては、城明渡し、藩主父子の助命嘆願などに力を尽くし、自ら進んでその責任をとり自刃した。

子・郡長政は、萱野権兵衛の次男で明治3年小笠原藩(福岡県)の育徳館に留学し教育を受けた。ある日長政は郷愁を覚え母に手紙を書いた。後に届いた母からの戒めの手紙を落として、小笠原藩士の子弟に大衆の面前で罵られた。長政は会津武士の面目を保つため切腹して屈辱にこたえた。ときに16歳であった。





登って行きます。

落ち葉の香りがします。






え?ここを登るんですか?(^^;

でも矢印はこちらを指しています。
行くしかありません。







落ち葉が積もっていて滑る滑る。
いつ転んでもおかしくありません。ヒヤヒヤものです。







到着。
萱野家の墓です。
こんなに高い所にあるなんてすごいですね。
墓石もとても大きいです。






ここは全て萱野家の墓のようです。
(長正の母方の「郡」姓もあります)

この一帯でひときわ大きい墓石が
会津藩家老・萱野権兵衛の墓です。

奥さんと合祀されています。



萱野権兵衛(かやのごんべえ)


会津藩家老1500石 萱野小太郎長祐の子として生まれる。

戊辰戦争が起きると、彼も他の重臣と同じく、陣将として国境に派遣された。越後蒲原の会津領と、幕府預り地(魚沼郡)の防備のため水原にあったが、間もなく城に帰り、藩の激務を処理した。

西軍によって東部国境が突破された時には城外に出て戦ったが、田中土佐、神保内蔵助の両家老はその責任をとって自刃。西郷頼母は行方不明。萱野権兵衛は国老の主席として、また戦陣の将として篭城戦を指揮した。

明治元年(1868)9月22日午前10時、若松城はついに開城。
(落城していませんのでお間違いなく。)

やがて西軍の間では会津藩の戦争責任を追及する会議が開かれた。
「首謀のものを出頭させるべし」との命が下された。この時名乗り出たのが萱野権兵衛であった。
「会津藩家老 田中土佐・神保内蔵助はすでに自刃、西郷頼母は行方不明。権兵衛が謹んで裁きをうける心底である」と申し出て、会津藩における一切の戦争責任を一身に引き受けたのである。

この時の権兵衛の心底には、萱野家の祖が流浪中、会津松平家の祖・保科正之により召し出されて今日の萱野家があるのだから、困難にあたってその恩義に報いるのが当然のご奉公とする一心もあったという。

萱野権兵衛は、間もなく江戸久留米藩邸(有馬氏)に幽閉された。
そして明治2年(1869)5月18日切腹を命じられる。

切腹の日の朝、サカヤキの場についた権兵衛は
「長い間お世話になった。今日は襟元の毛を見苦しくないように、特に念入りにお願いする」
と言うと、いつもと少しも変わらぬ静かな態度であったという。

丁重な酒肴を断り、を点じて同室の人たちにも配り、最期に自分も静かに喫した。
自分の死によって一刀流の奥義の絶えるのを憂い、室内には金物が無い事から、手元にあった竹の火箸を用いて井深宅右衛門に奥義を伝授した。

やがて、権兵衛の切腹の場に当てられた飯野藩保科邸から迎えがきた。

保科邸に到着すると、容保と照姫からの親書を手渡された。

容保からは「私の不行き届きによりここに至り、痛哭に耐えず。その方の忠義の段は厚く心得居り候」
照姫からは「夢うつつ思ひも分ず惜しむぞよ まことある名は世に残れども」の一首があった。

親書に対し、権兵衛は謹んで礼を述べ
「覚悟のことであるから少しも悲しむところではない」
とむしろ喜びの心を述べた。

やがて自刃の時刻がきた。

権兵衛は、介錯人の沢田武司を見て
「常に差している刀か」
と聞いたので
「実は保科家から忠臣をもてなす道として特に下された」
旨話すと、権兵衛は
「鑑定したい」
と言って抜いてみて
貞宗の名刀ではないか」
と反問したという。保科家から下された刀はまさにその通り貞宗であった。

「最期に臨んでよい目の保養をした。見事にお願いする」
と言って、神色自若、一糸も乱れなかったという。

東京港区の興禅寺と会津若松市の天寧寺に墓がある。

権兵衛の遺族には、松平容保から金5000両が下賜された他、自刃見舞いとして銀20枚、喜徳からは銀10枚、照姫からは銀2枚を賜った。
またこの年、松平容保には外桜田門に狭山藩邸を賜ったが、松平家ではその邸の一部をさいて権兵衛の遺族らを住まわせた。




つまり、萱野権兵衛の首は、名刀・貞宗で・・・
という心遣いがあったという事でしょうか?

うーんせつない。








観音様の左隣にあるのが郡長正の墓です。
その隣にある、真新しい碑石にはこう書いてあります。

会津萱野家の始祖は萱野権兵衛長則と称し、加藤嘉明の上級家臣として国替えにより会津に移ったが、嘉明の嫡子明成が石見に減封された後、会津藩主として高遠藩から最上を経て入府した保科正之に召しかかえられた

長則は寛文6年(1666)80余歳で没し、ここ天寧寺に葬られた。子孫も代々会津藩の興隆に尽くし、
天寧寺が萱野家の菩提寺となった。

特筆すべきは
9代権兵衛長修とその嫡男長正である。

長修は、あの凄惨を極めた戊辰戦争の全責任を一身に負い藩候と全藩士に代わり、明治2年5月18日、江戸の飯野藩邸において従容として切腹した。享年42歳。知行1500石の家老であった。

郡長正は戊辰戦争後の明治3年、会津の教学復興のために選ばれた藩内の少年7名の一人として現福岡県豊津町小笠原藩藩校育徳館留学した。

郡長正は最年少ながら文武ともに秀でていたが、
とある事情により会津武士道を汚したとして明治4年5月1日、異郷の地において自刃して果てた。時に齢16歳であった。

小笠原藩は郡長正の死を悼み、
会津の方角に向けて墓をたて、その霊を弔った。

育徳館の後身である福岡県立豊津高等学校は昭和31年10月、会津の石2基を配した郡長正記念庭園を構内に築造し、今日においても郡長正精神を顕彰している。以って全国高等教育の範とすべきであろう。

豊津町では毎年
命日に当たる5月1日郡長正墓前祭を盛大に挙行しており、会津士魂会としても感謝に堪えない。

ここに会津士魂会は、東京都在住の篤志家、天生目(法姓平子)義清氏の御芳志と会津士魂の伝授の心に誠意を捧げて、観世音菩薩像を建立し、萱野家ご一同に対し深甚なる敬意を払い、その霊を祀る次第である。
平成15年5月18日
会津士魂会



なるほど、代々「萱野権兵衛」を名乗っていたのですね。








郡長正の墓。

戒名は「清心院殿覚道宗性居士」です。

どうしてお父さんである萱野権兵衛と、息子である郡長正の苗字が異なるのかと言いますと・・・。。
「郡」はお母さんの苗字なんですよ。会津藩の家老の息子だと分かると、どうしても不都合が出てきます。よって、名門「萱野家」の名跡は断絶させ、母方の「郡」にし、血筋を残した、という訳です。



郡長正(こおりながまさ)



会津戦争の全責任を取って自刃した萱野権兵衛の嫡男として、1856年に生まれた。幼名乙彦。会津戦争の時は12歳であった。
権兵衛の自刃によって萱野家の姓を断絶、母方の姓をとってと称した。

戊辰戦争後、かつて会津藩主・松平容保から援助を受けていた藩としての報恩の思いを込めて、小倉藩小笠原家から

「10名以内の会津藩の子弟を預かって教育しよう」

との親切な申し出があった。会津側では秀才の誉れ高い7名を選んで留学させた。長正は、学才を見込まれて7名のうちに選ばれた。郡長正は最年少の15歳であった。

小笠原藩校育徳館といえば、その結構規模においても会津藩校日新館と並び称される程に有名な藩校であったから、会津戦争によって流離していた会津の少年武士らにとっては胸躍る遊学であった。

少年らの勉学は平和裡に行なわれていたのであるが、ここに突如として一大事件が発生した。

長正が落とした手紙を小笠原の少年らに拾われ、読まれてしまったのである。

その手紙は母からのものだった。長正からの手紙の末尾にほんの一言、食物について不平らしい事が書いてあったので、
「何とさもしい人間に成り果てたのか」
叱責する内容であった。

会津藩の気風は粗食であって、小倉藩と甲乙ある訳ではなかった。しかし彼は食事について不平らしい事を書き、それを母からたしなめられたのは事実である。
「味の付け方の相違を言ったのではないか」
という人もあるが、それはともかくとして、

「食客の身分でありながら、食物について不平を言うとはけしからぬ。いかにも亡国の臣らしい」

などと、小笠原の少年達は結果に思い及ぶこともなく、優秀な長正への嫉み半分、からかい半分に罵った。

このことが会津士道非難の大騒動に発展してしまった。

深く責任を感じた長正は、死を宣言した。
会津武士は非難を受けるほどの華奢忘恩の徒では決して無いことを証明しないではいられなかった。死んで恥をそそぐと表明したのである。

少年達は周章狼狽、ただちに上司に忠進した。
日が経てば翻意するであろうと、長正を矢留浦谷の御目付、小笠原伊豆の役宅に預けた。

7日後、寄宿舎に戻った長正は
「小倉藩の恩義については決して忘れるものではない。しかし会津には「ならぬことはならぬ」という教えがある。私の父権兵衛もこの教えによって切腹したのである。私はすでに過ちを侵し、会津士魂を辱めたのである」
と言うと、一同の見守る中で見事割腹して果てた。
ときに明治4年5月1日、15歳の春のことであった。

小笠原の人々は、長正の死を悼み、甲塚墓地のやや中央に、400里(約1600q)離れた会津の方角に向けて碑を建てた。先生と生徒達が金を出し合って建てたものである。その正面には「斗南藩郡長正神位」とある。

萱野家の菩提寺は萬松山天寧寺で、長正の墓もここにある。

育徳館(今の豊津高校)の生徒たちは、曲がった事をすれば長正の遺影の前で正座して、さらに悪い事をすれば長正の墓地まで走らされ、墓前でその反省と誓いをさせられる事があるという。

・・・・・・・・・・

※九州の小倉小笠原藩は、戊辰戦争後、ゆえあって新しく豊津藩に変えて、藩校名も旧名から「育徳館」に変えています。

※私が見た書籍では、小倉藩と書いてあるものと、豊津藩と書いてあるものがありました。

※この墓は、九州の墓を掘り、その土を一掴み持ってきて作ったのだそうです。


どっちにとってもせつない話です。
個人的には、長正君には死なずにその頭脳を生かして
父・萱野権兵衛が守った会津を担って欲しかったですが
そうもいかなかったんでしょうねえ・・・。

小笠原の少年たちも、まさかこんな事になるとは思わなかったでしょうし。

うーん。
長正の母君も辛かったでしょうし。

うーん。






墓所からは鶴ヶ城が見えました。





萱野家の墓の上には、またお墓がありました。
きっと名のある家の墓なのでしょう。
※私の知識がなくて良くわかりません。






萱野家の墓所を見下ろしてみました。








オマケ。
鶴ヶ城の本丸にある「萱野権兵衛殉節碑」です。
石碑ひとつを取っても、色々な話がある訳です。

というわけで、花見の時などに
ここに登ったりしないようにして欲しいです。

会津藩の為に自刃した家老の碑なのですよコレは。




この頁の参考資料
「図説 会津の歴史 下:郷土出版社」
「会津人物事典:歴史春秋社」
「幕末会津藩:歴史春秋社」

など。


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