お秀茶屋
おひでちゃや




田楽がオススメです。







愛宕神社を南下してお秀茶屋に到着です。







「ここにはほのぼのと会津のあたたかさがある
奴老ヶ前(やろうがまえ)
田楽 お秀茶屋


江戸時代の初め(250年前)会津城主が裏山に刑に処する人に
この田楽と清水を飲ませたと云う城主の思いやりの味が今尚続いている」







店の入り口には猫がいました。





撫でたら、我々を誘導するかのように
開いている入り口から中に入ってしまいました。
招き猫でしょうか。








店内にはイロリがあって、ここで餅や厚揚げを焼いてくれます。

・・・知人の曲がり屋のにおいがします。






店内はこんな感じ。
一般のお宅の一室って感じです。
というか、そうなのではないでしょうか。







メニューは壁に貼ってあるものだけです。
イロリの煙でいぶされて、茶色になっています。







蕎麦やクルミ餅などがありますが、
ここはスタンダードに田楽セットにします。

餅、生揚げ、身欠きニシン、こんにゃく(冬は里芋)
一人前700円

ラッキー、冬は里芋です。
身欠ニシンは食べられますが心から愛している訳ではないので
注文段階で餅と交換してもらいました。

聞いてみるものですね。







待つことしばし。
田楽の登場です。

身欠ニシンは1本で、餅はもともとは2本なので
餅が計3本になりました。







うまーい(^^)








芸能人や有名人も訪れているようです。
手塚治虫だ!!

これが原本なんでしょうか?
だとしたら保存状態は良くない・・・(^^;
コピーである事を祈ります。








江戸時代の初め(250年前)会津城主が裏山に刑に処する人に
この田楽と清水を飲ませたと云う城主の思いやりの味が今尚続いている


とあるように、ここお秀茶屋の真ん前は処刑場でした。
死ぬ間際に旨いものを食べさせてやろう、という事でしょう。

地蔵菩薩が、処刑場だった時代を物語っています。







お秀茶屋の向かいには、道が二本あります。
(写真には写っていませんが、お秀茶屋は右側です)

右の道が旧道で、左の道は川を埋め立てて作った新しい道路です。





 

この新しい道路がもともとは川だったそうです。
今、川は道路の向こう側を流れています。

河原が処刑場だったそうで、

つまりこの写真の場所処刑場です。

※これらの話は、お秀茶屋のおじさんに教えてもらいました。
ありがとうございました。





2004.2.11

手塚治虫氏と会津との関係が分かりました。

会津出身の男性が4名、手塚氏のアシスタントとして働いていたそうです。
そして、女性初のアシスタントは西会津の方だそうです。

そのためか、手塚氏は「そうだべし」など
会津弁を話すほど親しみを持っていて下さったそうです。
そして会津の地を3回訪れています。そのうちの一回は家族旅行です。

そして、手塚作品には他に類を見ない、
実在の土地(会津)が舞台になったマンガを描いて下さっています。

「スリル博士」の「博士のノイローゼ」という回です。
全15ページを、東山温泉の原滝別館に宿泊中、一晩で書き上げたそうです。



車窓からは磐梯山が見えます。
絵でもちゃんと、明治21年に水蒸気爆発して
てっぺん(小磐梯)が吹っ飛んだ形になっています。






左の男性の台詞の訳
「だんなさん、会津若松の終点に着きますよ」

「あんつぁま」は比較的若い男性の事です。
「お兄さん」「だんなさん」くらいの意味です。
※「あにさま」「兄様」が訛ったのでしょうか。






「・・・只見線、会津鉄道 ご利用の方はお乗換え下さい」
とアナウンスが続くはずです(笑)

手塚氏はほとんど記憶のみで描いているそうで、すごいです。
本物とそっくりそのままです。

あいづわかまつの右下が空白になっていますが、
後の本にはちゃんと「しおかわ」と書いてあるそうです。





鶴ヶ城。
廊下橋も忠実に描いて下さっています。

手塚氏は昭和34年に、一週間ほど滞在なさったそうですが、
この時鶴ヶ城は再建されておらず、石垣しかありませんでした。





竣工は昭和39年秋になります。

だからさ、遠い所からやって来て、
他所の土地の大切な物を勝手に壊すな。

プライドと意地で再建しても、やはりそれは本物じゃない・・・。

え?どうせ「廃藩置県」と同時に「廃城令」が出ただろうって?
鶴ヶ城は「残す城」にリストアップされていたんですよ、何故かね。

※明治政府ですし、「良い城だから残すべき」って理由はどうしても考え難いです。
※その他の「残った城」は、現在国宝指定されています。犬山城とか、白鷺城とか。

しかし、鶴ヶ城は、西軍の砲撃のダメージ維持も修復も不可能でした。

維持・修復は無理なので、会津は明治政府に嘆願して、城は取り壊すことになりました。

どれだけの屈辱だったんだろうか・・・。想像に難くないですね。

一日に2500発、最期の集中砲撃では
三方向から一日に5000発(だっけ?)も砲弾を撃ち込まれたのに
あれだけ綺麗に形が残っていたのはやっぱりすごいよね。

それによって、私の先祖をはじめとして大勢が殺されましたが。
火薬の入った焼玉も多く撃ち込まれ、城内はすごい惨劇だったそうです。
修羅場ですね。


何度も言いますが鶴ヶ城は「落城」していません。
城内の人間が、自らの意思で「開城」したんです。

それまでは、一兵たりとも敵を城の敷地内に入れていません。
ですから、城内で銃撃戦などもありません。


江戸城が「無血開城」なら、鶴ヶ城は「流血開城」ですよ。





新潟の長岡城も、現在は駅になっているそうですね・・・。心から残念です。

鶴ヶ城だって、会津藩士・遠藤敬止が私財を投げ打って
鶴ヶ城を敷地ごと明治政府から買い取って
会津松平家に献上しなかったら、きっと跡形も無かったはずです。
ありがとう遠藤さん。

・・・なんで、明治政府に大金払って、自分達の土地を買い戻さなきゃならないのでしょうね。


鶴ヶ城の、史跡としての登録名が「会津若松城」ではなく「若松城」ってのも、政府の思惑が見え隠れします。

史跡登録当時、会津は「若松市」だったのです。「会津若松市」ではなく。

だから城も「若松城」にさせられたのです。

廃藩置県でも「若松県」にさせられましたからね。

「会津」という単語はことごとく抹消しようとしたのでしょう。
大人気ないなあ。

※まあ、「若松」という単語自体は蒲生氏郷出身地ゆかりの「若松の杜」に由来するので
悪くは無いんですけど。


ああ、手塚治虫氏の話だったのに、つい戊辰に・・・。
閑話休題。





手塚氏と関わりのある、実在の人物も登場します。
この3人の男性は会津出身のアシスタントの方々だそうです。

「ヌタヌタ」は手塚氏が使用法を間違っているそうです(笑)






ヒゲおやじ(スリル博士)の弟役も、会津の人だそうです。

今回参考にした本で、沢山のエピソードを語っておられました。






赤べこも登場。




今は無き、背あぶり山のロープウエイ。


その他にも、イロイロと観光なさってます。

行く先々でサインや絵を書いて下さったそうで、
その一枚がお秀茶屋の色紙です。




・・・飾ってあるのは本物だそうです。
茶色になってきているけど、大丈夫かな〜(^^;
これでも写真の色調調整をしてるんですよ。
てっきりコピーだとばかり。







飯盛山の戸ノ口原洞門と手塚氏。

郷土や同郷の方々が、偉大な方にご贔屓にしていただいたというのは
私としても非常に嬉しい事です。

という訳で、皆様も機会がございましたら是非
「スリル博士」を読んでみて下さい。

本当は全ページをUPしたいところですが、流石にマズイでしょう。
(勝手に写真を使わせていただいている時点でマズいですけど(^^;)



参考資料:「私たちの手塚治虫と会津」
発行所:福島まんが集団「青い鳥」
製作:歴史春秋社

↑戊辰以外の参考資料です(^^;


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ちょっと検索してみたら、興味深いページをみつけました。
新たな鶴ヶ城古写真が発見されたそうです。


・・・あえて書かれてはいませんが、このページの根底にあるものは
「我等の城は崩れることなく、西軍の砲撃に耐えたのだ」という事ではないかと思いました。

↑のページは「甦る鶴ヶ城」の一ページです。
興味のある方には楽しく見られます(^^)
写真も沢山あって面白いです。





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