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天寧寺
てんねいじ


ここ萬松山・天寧寺は、1422年に、11代芦名盛信により南朝の中心楠正成の孫である傑堂和尚が建立した名刹である。

のちに伊達氏の侵攻にあって焼失。

芦名氏の菩提寺としての面影は、本堂の礎石にわずかに残るのみである。

戊辰戦争の際、責任を負って自刃した家老・萱野権兵衛や、
その次男・郡長正、新撰組隊長・近藤勇が眠っている。



カッコいいイメージのある伊達正宗も、会津にとっては侵略者。
寺など、大切な物が色々壊されたり燃やされました。

400年に渡って会津を治めていた葦名氏を攻めたこと(私戦禁止)と、小田原の北条氏攻めへの遅れを罰せられて、
たった一年しか会津に居られないくせに・・・。





会津武家屋敷の近く、お秀茶屋の近くに登り口があります。

「奥津城」というのは神道でいう墓所のことだそうです。








登り口の近くには近藤勇の解説がありました。

まちに歴史あり 会津の先人たち

近藤勇
天保5年〜明治元年(1834〜1868)

幕末の京都に名を馳せた「新撰組」その局長・近藤勇の墓が、ここ慶山の中腹にあります。新撰組と会津藩とは大変に深い結びつきがあったのです。

将軍上洛の警備のため
江戸で組織された浪士隊、その中に近藤勇と土方歳三のグループがいました。

隊のリーダー格だった
清川八郎は京に入ると一転し、隊を天皇直属の攘夷軍とすると言い出します。それに頑として抵抗したのが近藤勇でした。

浪士隊な分裂、大半は江戸に戻りますが、近藤、土方らは京に残り、京都守護職であった会津藩の預かりとなり「新撰組」を旗揚げしたのです。その後の新撰組の活躍はあまりにも有名です。

以来、将軍家に忠誠を尽くすという姿勢を貫き通した会津藩と新撰組は、敗戦まで手をたずさえていくことになります。

慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで敗れ、京を去った
近藤勇板橋で捕らえられて処刑されます。土方は、近藤の遺髪を胸に会津に入り戦いました。その際に遺髪を葬ったのが近藤勇の墓なのです。

土方は会津が館落語も函館へと転戦、最期まで戦いつづけました。



・・・・・・・・・・・・・・・・・

その後の新撰組の活躍はあまりにも有名です。

すいません、よく知りません(^^;







山すそにある住宅街を抜け、天寧寺に到着です。







本堂が見えてきました。







改修工事中でしょうか?
それとも雪囲い中?







かなりイイ具合に色があせた看板ですが、分かりやすいです。

字が見えにくいですが、中央が現在地である本堂。

右上にあるのが
会津藩家老・萱野権兵衛とその息子・郡長正の墓です。

中央上が近藤勇の墓。

左上が愛宕神社です。

今からこれらを廻ってみます。





近藤勇之墓
新撰組隊長近藤勇は、戊辰の役で奮戦中千葉で力尽きついに薩長の手に捕らえられ、首をはねられました。
遺体は東京三鷹市の
龍源寺に埋葬されたが、首は京都の三条大橋下流にさらされた。しかし何者かが持ち去りこの地に埋めたと言われる。このお墓は、会津藩の手によって建立されたが、それは会津藩主松平容保公が京都守護職中、新撰組はその支配下にあり、挺身幕府のために力をつくした。また、土方歳三など一行が会津に来て、戦闘に参加した際この墓を参詣したと伝えられる。
墓石には
「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号と、その上に丸に三つ引きの近藤家の家紋が彫られている。
毎春4月25日の命日には、墓前祭が執り行われている。

萬松山 天寧寺








  

嗚呼!!
という訳で進みます。






現在も墓地として使われているので
真新しい墓石も見えます。






作家で会津藩士の子孫でもある早乙女貢先生と
会津士魂会が建てた石碑。

ここに書かれている内容は
これから順を追ってご説明するので割愛します。







まずは萱野権兵衛&郡長正の墓へ行ってみます。






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