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無量寿山 長命寺 真宗 大谷派


戊辰戦争の修羅場を生き抜いた寺です。
東軍墓地もあります。




「この長命寺という名を聞けば、戊辰の役における会津若松の市街戦
最も苛烈なる戦場となった所だ、ということは
世の識者には十分承知されるところである」


そうなんですよ〜。
東軍墓地もありますし、個人的に、この寺は最重要ポイントの1つだと思います。








史跡 長命寺 築地塀 

市指定文化財(史跡)第81号 平成5年9月16日指定

長命寺は、慶長10年(1605)京都本願寺第12世教如人が蒲生秀行に請い、若松城下日野町(今の上町)に一寺を建立、本願寺輪番(本願寺出先機関)の地とし「本願寺掛所」としたのが始まりとされている。
そして、浅草本願寺と同じ寺格を賜り、会津一円は勿論、東北の各地にも布教した。

寛文年間((1661〜1672)本願寺直轄寺院であったこの寺は、最高の寺格を表す白線の五條の築地塀を許された。

この築地塀は、平成5年の大修理の際に分かったが、構造的には外観を土塀にて仕上げるいわゆる「練り壁」の工法がとられ、この工法は江戸時代に広くおこなわれていた。

この築地塀の名を高らしめたのは、戊辰の役における長明寺での攻防戦であり、当時の鉄砲弾がこの築地塀に無数に残っていて、その戦いのすさまじさを物語っていた。

平成7年12月
会津若松市教育委員会








平成16年現在の築地塀です。

五本の白線別格本山であったことを表し、
東北では三ヶ所しか無いと言われています。







・・・写真で見たのは、もっともっと酷い痕でしたが
やっぱり修復されたようですね。
この穴は直径5センチもありません。










長命寺の土塀


戊辰の役の戦いの跡をそのままに残してきたが、昭和39年の新潟地震を始め、年とともにその老朽化ははなはだしく、平成4年修復するに至った。

弾痕は無数にあったが、塀の崩れを防ぐため少数に止めた。

尚、昔の面影は写真によって保存している。


砲弾による穴は、小さいものを少数だけ残して修復したようです。
その穴が、先ほどご覧いただいた小さい穴です。

やっぱり、当時の様子を知るには写真しかないようですね。

という訳で・・・。




手持ちの資料の写真を載せさせていただきます。
すみません。




資料名:幕末会津藩(歴史春秋社) P108
「長命寺旧土塀。近年に修復されるまで会津戦争時の弾痕が生々しく残されていた」




資料名:会津の寺(歴史春秋社) P115
「格式の高さを表す白線のある土塀にぶちぬかれた砲弾痕」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

歴史春秋社の書籍にはいつもお世話になってます。
「痒いところに手が届く本だな!」と思うと、いつも歴春の本なんですもん。

・・・初市では、歴春のテントが、表紙に汚れのある書籍を割引で販売なさっておられるので
「いつも素晴らしい本をありがとうございます」とご挨拶しました(笑)








血の雨降る地獄絵図現場

戊辰8月29日、会津藩家老佐川官兵衛を主将とした約千余名の出撃隊が、暁を期して融通寺口より郭外に出て、西方より西軍の右翼を攻撃しようとした。

この日の出撃は、将士一同討死の決意であった。多くの士は懐中「八月二十九日討死、何の某」と書いた紙片を持っていた。
この日は戊辰の役で稀に見る凄惨な戦いであった。

火兵化において西軍に数段劣っていた会津藩の軍は、白兵戦を試みる以外になかったが、敵の火砲により近づけなかった。それでも勇敢な会津軍は屍を乗り越えて敵に肉迫していった。

長命寺においては、備州、大垣、土佐の三藩と激しく渡り合っており、この三藩の兵は長命寺に立てこもっていた。

会津藩はこの寺の前哨陣地を占拠はしたが、後方の長州大垣の陣地からの砲撃が始まり、大いに苦戦し、なかなか本拠地を奪うことが出来なかった。

このように、両軍決戦場となったここ長明寺は激烈なる修羅場と化し、会津軍は寺内に果敢に突進して一時占拠するも、土佐数隊の援兵により、長命寺は再び西軍の手に落ちてしまうのである。

この時、「将卒170余人之に死す」とあるが、西軍の死者はわずか16名ほどであった。

この長命寺の戦いで、会津藩家老・佐川官兵衛の父幸右衛門直道が一緒に出撃しようとして、息子官兵衛に止められたので

「わしはまだ70歳にならぬ若者だ、どうあっても出陣する、2度と止めるな」

と言いながら上衣を脱ぐと、その下着にすでにこう書いてあった。
「慶応四年八月二十九日討死 佐川幸右衛門直道 生年六十三歳」

果たして幸右衛門は華々しくこの戦いに散ってしまったのである。


たったの136年前、ここでそんな事があったとは・・・。

自分が戦死するであろう事をあらかじめ考え、
自分の命日になるであろう日付と名前を書き記し、それを懐中し、
郷土と誇りと正義を守るために散っていった方々の事を思うと目頭が熱くなります。

正直、こんなに身近な場所の歴史がこれか・・・と、
今更ながら呆然としてしまいます。









長命寺戊辰戦懐古  天鶴

撃つもよし討るるもよし瓦けの 砕けてのちは唯の土くれ

百年の弾痕未だ尚消えず
秋風何をか語る長命寺の畔
無名の万骨苔石に鎮まり
香煙新に迫る忠魂の前





本寺は慶長10年蒲生秀行公の代
本願寺第12世教如上人 岩代国若松日野町に一寺を建立し 東北一円に布教せるにはじまる。

寛文7年 院地狭隘のため現在の地に移る。
寛文2年 保科正之公入国に際し 最上専徳寺幸甫御坊 留守役として入寺 長命寺と称し世襲となる
5世幸観本願寺より宗祖聖人等身の御似影を享け以来殷賑を極む。

境内 東西1町10間
南北40間
墓地 東西30間
南北80間
総門 東向き番所
高さ7尺の石碑に本願寺御門跡掛所と刻せり
中門あり
本堂 10間に8間
南側に鐘楼あり
庭園 6畝余歩
他に茶毘処を有す

明治29年 祝融に再会 堂宇烏有に帰して70年
今や檀信徒 相図って本堂庫裡を一挙に造営し 境内を修景し 寺門の経営に努め 隆盛旧観に近からしめんと期す
依って 茲にその由来を記し その事蹟を銘記する








本堂です。
この寺は、戊辰の役で全て焼失しました。
昔の面影を留めているのは築地塀と親鸞上人の御影のみです。

碑文によると、檀家の方々が力を注いで「隆盛旧観に近からしめん」
努力なさったようです。








東軍墓地は、本堂に向かって左側にあります。
方位で言ったら南側です。








これが東軍墓地です。これ1つだけです。
周りにあるのは普通のお家のお墓です。
戊辰殉難者の墓は、いつも大勢が一箇所にギュウギュウ詰めになっています。


激戦の悲哀残る霊場

激戦後、城内や市中にあった累々たる戦死者の遺体は、葬る事は勿論、手を触れることさえ許されなかった。遺体は月日の経過と共に風雨にさらされ腐乱し、野犬や烏が食いちぎり、その惨状は見るに耐えない状態であった。

死者の埋葬許可を、融通寺に駐在している西軍参謀に何度も嘆願したが、賊軍という名のもとに許されなかった。遺体を片付けたことが知れたら厳罰に処されるほどであった。
それが許されたのは明治2年2月14日(旧暦)に至ってであった。

埋葬の地は、賊軍の遺体ということで、薬師堂河原(神指町)の罪人塚および小田山を指定されたが、哀願のうえ、阿弥陀寺、長命寺の2寺に限り許された。

長命寺では、当時の住職14世幸證が、いろいろ奔走して、その年の暮れに、土饅頭にして三つ自らこれを埋葬したと言われる。

しかし、墓標を建てることは絶対に許可されず、その後、阿弥陀寺の墓の建立よりも後れること5年、明治11年4月になり、志田右一郎他、74人の有志の者によって、ようやく「戦死墓」とだけ記した石碑を建て、その霊を慰めることができたのである。

無論、戦死者の氏名など書くことはできず、埋葬者145名と記録にはある。




あーあ、人として最低限の事まで禁止されたとは・・・。
先人達の気持ちを推し量るに、やりきれませんよ本当。








戦死者名はありません。

とても立派な西軍墓地とは大違いです。









墓標の裏側です。

明治一年戊辰八月官軍国若松城其廿九日
城兵千余出□□□□??戦長命寺伏林叢多
?官軍若?城兵死者亦?百人□□?書及事
平?屍?諸寺中至戊寅十一年建石表墓

古い漢字とか、風化してしまって読めない字がありますが
何となく意味は分かります。











大きめに載せましたので、読める方はどうぞご覧下さい。

それにしても、会津の史跡で「官軍」って書いてあるのを久しぶりに見ました。
会津では、東軍(旧幕府軍)と相対した存在を、絶対に「官軍」とは書きません。

ですから、見たことがありません。

この墓標は明治11年に、幾度とない嘆願の末に建てる事が許可されたものですから
裏に刻む文字も随分と制約を受けたのだろうな、と推察します。

↑「官軍」表記も然り。
我々の先祖が、あちらを「官」だと思っていたはずがありませんから。








という訳で、長命寺を後にし
この流れで西軍墓地へ向かいます。







長命寺には綺麗なアヤメがさいていました。
5月ですから。



参考資料
・幕末会津藩(歴史春秋社)
・会津の寺(歴史春秋社)


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