御薬園
おやくえん



会津松平氏の薬草園です。







薬用植物園の由来

会津松平の二代藩主正経公が寛文10年(1670)ここに各種の薬草を栽培したのが始まりで、三代正容公の貞享年間(1684〜1687)のときには朝鮮人参を試植し、のちに会津全土へ広く奨励し「御薬園」と呼ばれるようになりました。
歴史を経ている薬草園として、東北でも貴重なものとされています。









位置 会津若松市花春町8番1号
面積 5,100坪(1.7ヘクタール)
沿革
  創設 永享年(1432)頃
  薬園設置 寛文10年(1660)頃
  庭園修補 貞享〜元禄年(1684〜1696)頃
  籍田設定 寛政2年(1790)
  文部省文化財指定 昭和7年10月19日
現状 名勝 会津松平氏庭園
遠州好大名庭園型廻遊舟遊式
薬用植物園
薬用樹木草木数百種
  昭和44年記
管理者 財団法人会津若松市観光公社






御薬園は会津松平家の薬草園です。

戊辰戦争後、鶴ヶ城、土津神社、そしてここ御薬園新政府軍に没収されてしまいます。

これを憂いた豪商・長尾和俊は、それらを買い戻そうと会津一円に募金を呼びかけます。

この募金によって買い戻された土津神社並びにその神域御薬園は、そっくり松平家の当主である容保公に献上されました。

戊辰戦争によって打ちひしがれた会津の人々にとって、鶴ヶ城、御薬園、土津神社は心の大きな拠り所だったことがうかがわれます。

・・・・・・・・・・・・・

鶴ヶ城は、旧会津藩士の遠藤敬止が一括で買い取り、松平家に献上しています。





入り口です。
今日は藤を見に来たのです(^^)









咲いてる、咲いてる〜。









藤アップ。
まだ蕾が多いですけど、充分綺麗です。










青空と藤。










藤棚の隣には、重陽閣があります。


重陽閣(ちょうようかく)
昭和3年(1928)建

元は、秩父宮勢津子妃殿下がご成婚の際に、ご一家で宿泊された東山温泉の旅館の別棟だった。

妃殿下の誕生日が9月9日(重陽の節句)であったことからこの名がついた。
昭和48年に現在の場所へ移築された。

現在、重陽閣向かって正面左手には妃殿下お手植えの松が、また右手には御顕彰碑があり、二階には妃殿下の数少ない御真筆の扁額があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

この重陽閣は、東山温泉新滝旅館の別館です。
節子姫の若松滞在の為に建てられたのだそうです。

勢津子様ご一家を歓迎するため、若松市民は一丸となってその準備にとりかかり、「道路の砂利一つ一つを磨いてお迎えする」気持ちで臨んだそうです。

節子様は、大正天皇の節子(さだこ)皇后と同じ文字であったため、皇后様が「勢津子」の字をおすすめになったそうです。

「勢」は伊勢の「勢」「津」は会津の「津」からとられたといいます。






新滝別館が昭和48年に御薬園の敷地内に移築されます。
このとき、三階建てから二階建てになります。

移築後は一般に公開されていますが、かつては結婚式およびその披露宴会場として市民に愛され、人生の門出にふさわしい場所として多くのカップルを誕生させました。

・・・・・・・・・・・・・・・

!!そのカップルの中の一組に会いましたよ!!
上品な年配のご夫婦が、この重陽閣を撮影なさっておられたので「お2人でのお写真、お撮りしましょうか?」と声をかけたら「私たち、ここでお見合いして結婚したんですよ」との事。

なるほど〜。東京からお越しのご夫婦でした。








秩父宮妃勢津子殿下の碑がありました。



秩父宮妃勢津子殿下

 秩父宮妃勢津子殿下は、明治42年9月9日、重陽の節句に、旧会津藩主松平容保公の4男で、後の初代参議院議長松平恒雄様、信子様(侯爵鍋島直大息女)の長女として英国ロンドンにてご誕生になりました。

 女子学院からワシントンのフレンド・スクールに学ばれ、御歳19歳の時、畏くも皇太后陛下の思し召しにより昭和天皇の直ぐの弟宮・秩父宮雍仁親王殿下とのご縁組が調い、ご本家の子爵松平保男姪としてご入籍、お名前の節子を勢津子に改められ、昭和3年9月28日ご成婚の儀がとり行なわれました。

 京都守護職として孝明天皇篤いご信任をいただいたにも拘わらず、戊辰戦争以来実に60年いわれなき汚名に悔しい思いを禁じえなかった会津の人々は、このご慶事により新しい夜明けを迎えると、まさに狂喜ともいうほどの喜びに沸き立ったのであります。

 こうして皇室に入られた妃殿下は、よく宮様を支えられ直宮妃としての責任を果たされました。昭和28年雍仁殿下逝去の後も、日英協会名誉総裁、結核予防会総裁、日本赤十字社名誉副総裁等をお務めになり、国際親善、社会公共のために尽くされました。

 妃殿下は晩年、回想記「銀のボンボニエール」をお書きになりましたが、信頼と愛情に結ばれた宮様への熱い想いは読む者を感動させ、心のふるさと会津に寄せられる深いお気持ちを表す文字が心を打ちます。

 平成7年8月25日御年85歳のご生涯を閉じられました。
 ここに秩父宮妃勢津子殿下の凛として気品溢れる彫像を拝してご遺徳を追慕し、末永くご功績を語り継ぎたいと思います。

秩父宮妃勢津子殿下記念事業委員会
平成15年9月7日建立

秩父宮様は、その時皇位継承権第一位の皇族で、
従来ならば皇族か華族の子女から妃殿下が選ばれる慣わしです。

勢津子様は、公家の姫ではなく、武家の姫です。
しかも西軍から朝敵とされた松平容保」の孫姫です。

天皇家の方々の、会津に対するお気持ちを拝察することができますね。
やはり、会津は朝廷以外の存在によって、朝敵・賊軍に仕立て上げられたのです。

勢津子様のご成婚・・・。
当時の会津の人たちがどれほど嬉しかったか、想像に難くありません。

「銀のボンボニエール」は会津若松市立図書館にありますので、お近くにお住まいの方は是非。

ボンボニエールというのは、皇族の方々がお客様に配る、砂糖菓子入れの事らしいです。
ここでいうボンボニエールは大正天皇の節子(さだこ)皇后からいただいたものだそうです。
銀製のの形をしています。






真っ赤な牡丹。大輪です。







牡丹の蕾が、ガクの中にぎゅっと詰まっています。







今にも咲きそうな、エネルギーに満ち溢れた感じ。







こちらの種類の牡丹は、ぱあっと咲いていました







ツツジもそろそろ見頃です。






セイヨウハッカ。
ミントです。






カミツレ。
カモミール。りんごの香り。
丸いところに製油が溜まります。
ドライのカモミールはちょっと変な香りです。
やはりカモミールは生が一番です。


あ、庭に和洋折衷の薬草園を作りたかった夢が蘇ってきました。
人生のなかでいつかは実現するでしょう。







ハマナス。皇太子妃雅子殿下のお印です。
花はローズ水の原料。
いい香りがするそうなので、原種に近いのでしょう。







ウコギ。
上杉鷹山が栽培を奨励し、沢では家の生垣などに植えています。
若い芽はつみとって、ウコギ飯にしたりします。
・・・一度も食べた事が無かったなあ。




 

チョロギだー!!
チョロギって、あのクルクルした漬物の材料ですよね!!
そういえば最近食べてないなあ。
ちょっと探してみようかな。







ほおの木。
小学校に沢山植えてありました。シンボルだったので。







水芭蕉がぐったりしていました。








観耕台より薬草園を臨む。
藩主がここから籍田の耕作状況を観られたそうです。








右の看板にはこう書いてあります。

この橋の材料のうち
勾欄の親柱は、
藩校日新館の畔水に架けられたものである。








手前の立て札にはこう書いてあります。

稲荷社
祭神倉穂魂命
薬草栽培籍田の礼(農事)のため守護神として祀る。




稲荷社より観耕台の方向を臨む。






 


オタネニンジン(朝鮮人参、会津和人参)

天明の飢饉で打撃を受けた農村の復興、藩の財政建て直しの為、藩は養蚕、漆、蝋、紅花など、価値の高い商品作物の生産を奨励します。

特に朝鮮人参は高価な商品作物であることから、藩直営の事業とするために人参奉行所を設け、専売制にします。

会津の朝鮮人参は、天保元年に、幕府の許可によって日本で始めての輸出人参として清国に輸出されます。

この取引を一手に引き受けたのが、長崎の貿易商足立仁十郎(あだちにじゅうろう)でした。

仁十郎は36年間にわたり会津和人参の輸出で巨万の富を築きましたが、会津藩に対する貢献も大きく、特に京都守護職時代の財政援助は3万両にも達していました。

会津藩はその功に報いる為、会津藩御聞番勤に任じ、700石の士分として召抱えました。

明治元年9月22日、鶴ヶ城開城の際に、式場に敷かれた15尺(4.5m)四方の真紅の大毛氈は、かつて仁十郎が藩に献上したものです。

後に泣血氈(きゅうけつせん)と言われます。


泣血氈は、戊辰戦争の降伏式で使用され、会津藩士たちの流した血の涙になぞらえてそう呼ばれます。

降伏式の後、藩士達はその屈辱を忘れまいと、その緋毛氈を小さく切り取って持ち帰ります。
それらの断片は、現存するものは個人やお寺などで持っていたりします。
(普通に見たい場合、白虎隊記念館もしくは白虎隊伝承史学館のどちらかにあった気がします。)

「西軍が殿の前でふんぞりかえって座っている錦絵」、ありますよね。
あの足元にあるのが吸血氈です。

場所は白露邸レポでご覧いただけます。

・・・・・・・・・・・・・・・

人参奉行所は、予想以上に大規模な施設で、藩の一大産業だったことが分かります。
人参をいく人ものプロが餞別し、加工するのです。
人参奉行は700〜800石の藩士が任用されました。


・・・以前、人参奉行所を友人と探したことがあるのですが、見つかりませんでした。








何となく、薬草園を望む。






レモンバーム。
シソ科。直射日光ガンガンだと爽やかレモンの香りが悪くなります。
また、乾燥させると変な匂いになります。
やはり生が一番です。







オトギリソウ。
ばーちゃんが煎じて、ウナコーワの容器に詰めてくれました。
蒸し刺されやあせもに効くそうです。





 

ふさふさしてます!
オキナグサだそうです。確かに白髪っぽいかも。
使うのは根っこだそうです。




 


籍田跡(せきでんあと)

5代容頌(かたのぶ)以降、歴代藩主が毎年3月土用入りの日に、一般農家に先んじて公田に植え付け、農業の振興を自ら奨励した。

・・・・・・・・・・・・
今はアヤメとかカキツバタが植えてあるようです。







籍田跡とグミの花とミツバチ。








カキドオシ
私が通っていた幼稚園の裏に沢山咲いていました。






ああ、これってギシギシっていうんですね。





 


ゼンマイ。山菜ですね。美味しいんだなこれが。

手間が掛かるので、今となっては高級食材です。
雄株雌株があって、綿がついているのが雌株です、確か。
親戚一同で山に山菜取りに行くイベントが毎年あったので、私も採りましたよ。
親戚一同で取るので、すごい量でした。
写真のように未熟な芽を摘み、綿を取って、大鍋で煮るんです。
屋外にかまどを作って。
アクがすごくてお湯が赤ワインみたいな色になるんです。

それを小分けにしてゴザに広げ、天日で干すのです。
ただ干すのではありません。
適時揉まねばなりません。グリグリグリと。
食用にするのは茎の部分なので、葉の部分は取り除かねばなりません。
乾燥させながら揉むと、葉の部分がゴミのように取れます。

うーん、我ながら貴重な経験ですね。

昔は、そのゼンマイワタを紡いで糸にし、着物を作ったりもしたそうです。
昔の人はすごいなあ。



 

ハシリドコロ。有毒。
漫画の陰陽師で出てきましたよね。
煎じて飲むと魂が遊んでしまうらしいので、気をつけましょう。



次へ